私は今日「私」を一つ見つけました。
江國香織さんの“なかなか暮れない夏の夕暮れ (ハルキ文庫)を読んで”です。
主人公である稔(ミノル)という人が私ととても似ているように思った。
「もしかして、私なんじゃ?」と思うくらいに。“稔”という人が私という人間のように見えたんです。
なぜそう見えたのか、どこにそう思ったのか。
それは、 稔の友達である「大竹」がこう言ってるところにあります。
ながい付き合いではあるが、稔の考えることが、最近大竹にはよくわからなくなっている。稔が変わったというわけではない。むしろ逆で、高校時代からあれほど変わらない人間を大竹は他に知らない。
本ばかり読んでいて、行動範囲が狭く、不器用で非力。誰にでもやさしいが、ときどきひどく冷淡にも見える。
まさにそうだ。
特に、 『誰にでもやさしいが、ときどきひどく冷淡に見える。』に、“まさに”と思う。
まさに、その言葉を友人から言われたことがあった。
「本ばかり読んでいて」は見る人によるかもしれない。
「一人でばかりいて」だったら、あとは全て私だ。
行動範囲が狭く不器用(?)で非力。
まさに私だと言える。
稔は、人を拒んだりしない。だから、優しい。
だけど、それがいい優しさとは限らない。
“優しいが優しくはない。優しいが冷淡である。”
痛い言葉だけれど、誰にでも優しいというのは、ある意味淡々としているということで、ある意味割り切っているということ。ある意味境界線があるということ。
それは周りを少しずつ傷つけることになる。きっと傷つけている。
だから、そういう人に「冷淡」という言葉は正解なのだと私は思う。
この本の最後に、とても分かりやすく表現されている。
大好きで大好きすぎた妻に家をでていかれたこと、その上離婚を求められていることを黙ってた大竹は、そのことを稔に話す場面。そんな大竹に稔はこう存在する。
三枚目の離婚届
ヤミが置いていった一枚を破き、ヤミの実家でつきつけられた二枚目もその場で破いた結果、今度は郵送されてきたのだそうだ。
それでも大竹は判を捺す気がないらしい。
「ヤミちゃんのこと、好きなら捺してあげればいいじゃん」
稔は思ったとおりを口にした。自分ならそうするだろうと思った。
「お前、前に言ってたジャン、ヤミのためなら何でもするって」
大竹は何か言いかけて口をあけ、しかし何も言わずにあけた口を閉じだ。眼鏡越しに、稔をじっと見つめる。
「お前って、ほんとつめたいやつな」 そしてそういった。
(*ヤミ=大竹の妻)
みなさんは、どうですか?
これを読んで、「わかる」と思いますか?
それとも、「大竹の気持ち、わかる」と思いますか?
私は、稔と同じことを言うだろうと思います。いや、確実に稔と同じことを言う。
相手が家を出て行くほど親を出してくるほど“離婚”したがっている。私なら判を押す。それを覆してまで、それを話し合ってまで、先延ばししたところで、埋まるものは何もないと考えるから。きっとそうする。相手がそうしたいなら、心底好きな相手がそう言うのなら、納得いかなくてもそうするだろうと思う。
だから、友達にもきっとそう言う。
「好きなら捺してあげればいいじゃん」
これは、言わないほうが正しいのかもしれない。だけど私も言うかもしれないだろうと思う。もう少し濁して、、、きっと言う。
「そこまで言ってるならもう捺して“あげればいい”じゃん」と。
そして言われるだろうなと思う。
「お前て、ほんとつめたいやつな」と。
「優しい」というのはきっと“こういうこと”だ。
「誰にでも優しい」というのはきっと“こういうこと”だ。
いつだったか、『優しい人は冷たい人』と読んだことがある。
それもきっと“こういうこと”なのだろうと思う。
「優しい」と「優しすぎる」と言ってもらう言葉にずっと反発してきた。
「私はみんなが思ってるほど優しくないよ」
「優しいけど優しくないよ」と。
だけど、「稔」を通して、「稔と大竹」を通して、
私は私という人間のドライな部分を腑に落とせた気がしている。
「冷淡」と言う言葉で少し理解できたような気がしている。
本ばかり読んでいて、行動範囲が狭く、不器用で非力。誰にでもやさしいが、ときどきひどく冷淡にも見える。