先日、こんなことを書いた。
そこでも引用した言葉
なにかを壊していることに気づけない。
誰かに守られていることに気づけない。
世界で一番自分を不幸だと思っている。
それが子供であることの悲しみだとするならば、
あえて壊す、あえて傷つける、あえて気づいていない振りをする。
そしてもう、あの頃の強さは持てないと知っている。
なにが幸福で、なにが不幸で、
なにが好きで、なにが正しいのか、一切わからない。
その悲しみを引き受けるのが、
大人であることの悲しみである気がする。
ここにある、「そしてもう、あの頃の強さは持てないと知っている。」という一文に、私は胸を締めつけられる。心臓を “キュウ” と締めつけられるような音がする。
なにかを壊していることに気づけない。
誰かに守られていることに気づけない。
世界で一番自分を不幸だと思っている。
確かにそうだったかもしれない。そんなふうに過ごしていたような頃もあった。そんなふうにガムシャラに走ってた頃もあったなあと思い出せる過去の自分がいる。自分一人で立てるって、自分一人で立っているって、とにかくとにかく生きてた、18歳からの約2年。そうだったように思う。
何も気づいていない若さと、何も分かってない若さ、不幸だと思いながら走り回れる若さ。今のところ、あの頃が一番「必死」という言葉が似合う自分だったと思う。
何が残ったわけでも、何かを成し遂げたわけでもないけれど。
朝5時に起きて、5時半には家を出て、アルバイトして、レッスンに行って、オーディションにライブ活動に回って、1時前に帰宅して寝て、起きて。その繰り返し。
楽ではなかった。だけど、楽しかった。
とんでもなく必死で、とんでもなく充実してた。
毎日が目まぐるしかった、楽しかった。
だから、私は知っている。
「もう、あの頃の強さは持てない」と知っている。
そしてもう、あの頃の強さは持てないと知っている。
この言葉の通り、知ってしまっている。
知ってしまっては、再び持つことはできないことも、もちろん知っている。
もう、その体力がない。もう、その勇気もない。
それは自身が一番知っている。
少しだけ寂しい。知っていることが、少しだけ寂しい。
それは、大人になった証として誇らしいことでもあるはずなのに、なんだか少し寂しいことのように思えてくる。
そしてもう、あの頃の強さは持てないと知っている。
この言葉に理解してしまえることが、
この言葉に共感してしまえることが、少しだけ、寂しい。
だけど、それを知ったから分かることがある。
持てないのは「あの頃の強さ」だけだということ。
人はいつからでも新しい「強さ」を手に入れることができるし
人はいつからでも新しい「必死」を選ぶことができるのだと思う。
「あの頃」と同じものは持てなくても、「あの頃」とちがうものなら持てる。
ただ、同じものも持てないだけで、新しい「強さ」なら、新しい「必死」なら持っていける。
きっとそうなのだと、私は思う。
しかし、あの頃の強さは持てないと知っている。
この言葉がすごく好き。
この言葉がある文章が、この文章があるこの本が、すごく好き。ぜひ。