憧れる世界がある。
「もうできるだけのことは全部した!」と思ってみたい。そういう世界を見てみたい。「もうこれ以上できることはない」と空っぽになる。そんな世界を見てみたい。必死に生きて、倒れるように眠るくらい、夢中になりすぎて、鼻血が出ちゃうくらい(身体にはよくはないけど)、本気のそれを人生の中に挟んでみたい。そういう思いがここ数年ずっとある。
「好きなことで生きていく」そういう言葉がこの世に溢れるようになってからは特に、「寝食忘れるほど夢中になる」という言葉をよく聞くようになった。その言葉に憧れがあるから、やってみたいと思うのだけれど、中々それも難しい。そうしたいならそうすればいい、それだけのことなのだけれど、中々できない。だから「できる人」がすごく見える。だから、「できるを味わいたい」と憧れに思ってしまう。
人生に一度くらい心から必死に生きていみたい。人生で寝食忘れるくらいのもの一つでいいから気づいて死にたい。
そう思う。
じゃあ、そもそもこうしたことを書いている理由何かっていうと、最近読んだ本の中にこうあったから。
とにかく四六時中、研究室で机に向かっている。一週間の半分は徹夜をする。食事をする暇も惜しむから、仕事をしながら飲み食いする。
研究者たちは、院生たちは、こんな生活を送っているらしい。
私はまず、「四六時中」 という言葉がいいなと思った。四六時中、何かに夢中になれるのはとても幸せな人生だろうと思うから。でも実は、この本のこの部分ではその反対を指してる。幸せというより、「寝食惜しんでする研究で壊れていく人」のことが書かれてる。それを理解して読んでも、まだ羨ましく思う自分がいる。“しりたくないこと”に四六時中だったならば思わないだろうけれど、“そうではない”からこそ思う。
一週間の半分も徹夜して、食事する暇も惜しめること。
いいなあ、と。
「四六時中」
なれるものがあるなんて、いいなあと。とても憧れる。
もし、24時間寝食を惜しんで何かに取り組めたとしたらどれほど幸せなのか。それがしたくないこと以外であれば、願わくばしたいことであれば、どれほどの幸せなのか。そう上、それを365日していいと許可されたなら、どんな時間になるのだろうか、知ってみたい、感じてみたい。そう思う。
そんなことを考えながら、思い出した言葉がある。
いつだったからに読んだ宮下奈都さんの『羊と鋼の森 (文春文庫)』に、
「あああ、俺、血が滲むような努力ってやつをしてみたいよ」
というセリフがあった。それが衝撃として未だに残っていることを思い出した。
私は思う。私も、血が滲むような努力ってものをしてみたい。何でもいい、何かを、「全力で果たした」という感覚が一つ欲しい。
「書いて何者かになりたい」とか「読んで何者かになりたい」とか、何でもいい。ただ一生に一度くらい“わけがわからないくらい”何か必死になってみたいそう思う。今特に、そう思う。
それにはきっと「何でそうなるか」 とか「何を成し遂げるか」よりも大事なことがある。今すぐここから、できることで、したいことで、四六時中、埋めることだ。余裕とか疲れとか、この先とか、そんなこと考える前に、「することをする」「したいことを今する」「できることは今する」。憧れる世界に近づくには、きっとそれだ。
「今ここから、寝食忘れるほど夢中になる」だ。