最近“また”ハマって観ている。『セックス・アンド・ザ・シティ』を。
不思議なことにドンドン好きになる。年齢を重ねていけばいくほど、好きになっていくドラマだなあと思いながら観ている。それは多分、四人のかっこよさがだんだん分かってくるからなのだと思う。自立している女性の、四人の関係性の、恋愛観の、欲しいものを諦めない姿勢の、かっこよさ。ぶつけあい、ぶつかりあう、自由さ、への憧れ。それがどれほど「かっこいい」のを、去年より今年の自分のほうが理解できるようになっている。だから、ハマってしまう。ドンドン好きに思う。
そんな、セックス・アンド・ザ・シティ「シリーズ」の中の一つ、『セックス・アンド・ザ・シティ 2 [ザ・ムービー] (吹替版)』を改めて観ていて「おいおいおい!」と思うシーンがあった。
キャリーが「秘密はないから」と言うシーンだ。
旅行先でたまたま会った“元彼 エイダン”と、キスをしてしまったことに対して「秘密にはできない」と旦那に電話をかける。その時のセリフ。キャリーはこう言う(吹き替えのセリフで)。
なぜだかキスしちゃったの。
別に意味は全然なかった。
それに本の一瞬だった。
だけどすごく後悔してる。
あなたに言うのみんなはどうだろうって。
キスだけだし、何の意味もないし。
でも、、、でも、、、みんなに言ったの。
秘密は持ちたくないからって。
秘密はないんだって。
それに秘密を持つとおかしくなるでしょう、、、
だから、こうして言ってるの。
本当に凹んで、、、、
、、、ごめんなさい。
「ああ、キャリーはずるい女だ」と私は思う。こういう感覚の違いはよくあることだ。
「何でも話すこと」と「何にも隠さないこと」は少し違う。
「秘密」というのは、隠していることがあるという事じゃない。「秘密」とは、秘密にしていることがあると相手に気づかせてしまうことだと思う。「秘密がある」と分からせた瞬間に「秘密」になる。「秘密」ってそういうものなのではないだろうか。
キャリーとエイダン(元彼)がキスしたこと。ビックに隠さないことは本当に優しさだったのかと思う。二人しか知らない。二人が忘れれば、「秘密」にもならない。二人しかいない場所でのキスなのだから。それを二人だけで収めれば、なかったことになる。なのに、自分が苦しいから、自分がおかしくなるから、と電話をかけるキャリー。「おかしくなる」のは、キャリーで、ビッグには関係ないことなのに。
正直に話すこと。それが本当に“愛か”と思う。
他の人の口から耳に入るようなことは“ありえない”けれど、耳に入ることがないよう隠し通すことも大事なことだ。「秘密」にしたくないなら、「秘密」にしなければいけないことはしない。「秘密」になることは「秘密」のまま墓場まで持っていく。「秘密」にはそういう優しさも大事なのではないだろうか、と思う。
「ごめんなさい」
そう言ってスッキリしたのはキャリーだけだった。許されるのはキャリーだけだ。許せるのはキャリー自身だけ。打ち明けられた側の人間は、許すか許さないかしかない。ビッグはただ、傷ついただけ。
知らないよりも知らせてあげる方が優しさか。
知らないように墓場まで持っていく方が優しさか。
どちらが優しさなんだろう。
正直「隠し事」なんて誰にでもある。「秘密はなしだから」と言ったって、何でも言うことと、何でも聞かされることは違う。打ち明けることと、ぶちまけることは違う。
親も知らない、兄弟も知らない、親友も知らない、自分しか知らないこと、そんなものは誰にだってある。それでいいのではないか。
「言わなくていい事」はやっぱりあるのではないか。
言わないことは、存在しないことと同じなのだから。
傷つけるも傷つくもないのだから。
キャリーのそれ(引用したセリフ)を私にはまだ理解することができない。私がまだまだ子供だからなのか、私が心を開いていないからなのかは分からないけれど、やっぱり思う。
『なんでも話すことと、自分がスッキリすることは違うよ』
隠し事も嘘もなし。
それは理想的だけど。
隠し事も嘘もなし。
そう約束することは意味のあることだと思うけれど。
『何でも話すことと、何でも許されようとすることは違うよ』
やっぱりそう言いたくなる。
『セックス・アンド・ザ・シティ ザ・ムービー2』を観るたびに。
「秘密」って難しい。
「秘密はなし」って難しい。
そう思う。