あの島に移り住むまで

〜「好きな本から」を書きたくてはじめたけどいろいろ書いちゃってるブログです〜

人と人とに「全て」は可能なのだろうか

 

「可能なんだろうか」という言葉について考える。最近、出会った2つの「可能なんだろうか」から、考えてみたくなってしまった。

 

まずは『はだかんぼうたち (角川文庫)』という本の中の言葉

 

はだかんぼうたち (角川文庫) 

 

「新しい恋人の話も、まだいろいろ聞きたいし」と、にこやかに続ける。恋人とは言い切れない、とくり返したところで意味はなさそうだった。人と人との関係のすべてに、名前をつけることなど可能だろうかと桃は訝(いかぶ)る。名前がそんな大事だろうか。

  

 

そしてもう一つ、『セックス・アンド・ザ・シティ 2 [ザ・ムービー] (吹替版)』でのキャリーの言葉。

 

セックス・アンド・ザ・シティ 2 [ザ・ムービー] (吹替版)
 
アフリカの上空を飛ぶ頃、男女関係について考えてみた。
自分たちに起きていることを他人にわかってもらおうなんてそもそも可能なんだろうか
 
 
恋人ではないけれど、特別な人。付き合っていた彼と別れた理由の人。でも恋人ではない。恋人ではない特別な人。 名前がない関係。人と人との関係にすべて名前をつけることは可能なんだろうか。それは必要なのだろうか。という『はだかんぼう』の主人公“桃”。
 
夫婦生活に週2日休みを作ろうということになったキャリー。それを友人シャーロットに話したところ「おかしい」と言われてしまう。「夫婦って毎日同じベットで眠ることだと思ってた」と。そして、考える。「自分たちに起きていることを他人にわかってもらおうなんて可能なんだろうか」と。
 
人と人とに起こることを当事者意外に理解してもらうことは「不可能」だと私は思っている。人と人との関係に全て名前をつけることも「不可能」だと思う。『人と人』のことで「可能」なことなんてほとんどないような気がする。
 
自分の常識は、自分以外には非常識。他人の常識は自分の非常識。
 
なんてことが山ほどある。むしろ本当はそれしかないと思ってる。
 
どれだけ親しくても、どれだけなんでも言い合える間柄でも、すべてをわかってもらうことはできない。すべてに名前をつけて納得し合うことはできない。どれだけの理解者であれ、兄弟であれ、双子であれ、同じ人はいないのだから、「理解される」なんて不可能。「理解させる」なんて不可能。
 
 
人と人とで起こることに「名前」も「理解」も可能ではないだろうと思う。可能はないだろって思う。
 
 
そう思うことは、自分を楽にする。世間から自由にする。常識から自由になる。自分の楽は相手の楽を喜べる。自分の自由は相手の自由を喜べる。
 
 
正解はないのだ。
正解も不正解もないのだ。
常識も非常識もあるようでないのだ。
自分のそれは、相手のそれではないのだ。
相手のそれが、自分のそれである必要はないのだ。
 
 
そう思うことは、そう考えることは、自由を掴ませてくれる。
 
 
だから、読んだのかもしれない。だから、観たのかもしれない。
 
 
大事なのは「内側」で理解しておくこと。
大事なのは「内側」で理解できていること。
 
 
「可能」なのは、自分自身だけなのだから。
 
 
そう考えた。そう思った。
 
 
ふたつの「可能なんだろか」から。