こんばんは、なつです。
最近、『彼女たちの場合は』という本を読みました。
14歳と17歳の女の子が親に内緒で旅に出るお話。そこに面白いシーンがある。
旅の途中、朝の9時半。散歩からホテルに帰る17歳の逸佳。
ホテルに帰ったら、いるはずの礼那がいない、、、逸佳は焦って名前を呼びます。
すると、礼那はシャワーを浴びてシャップーをしているとわかるんです。
10時にはホテルを出るというのに。
逸佳は言います。
「10時にはここを出るんだよ?」と、苛立ちながら。
そして、礼那はそれにこう返します。
「わかってる」と、なんの問題もないように。
そこでの逸佳の心の声
「わかってる」のに、なぜ「いまシャンプーしている」のかわからなかった。
苛立たなかったと言えば嘘になるが、同時にある種感心してしまったのもまた事実で、それは、自分には絶対にできないわざだと思ったからだ。うらやましさに似た感情が抗いようもなく湧く。
そういうことができたいわけではなかったが、できない自分よりできる礼那の方が心根がいいというか、人間として大きい気が逸佳はする。
このページがすごく好きです。
逸佳のこの声がすごくすごく好き。とても理解できる。
私はどちらかというと「逸佳」に似ています。
私の友人はどちらかというと「礼那」に似ている。
時間に急かされることが苦手なので、余裕を持て行動したい。だから、ギリギリに慌てて行動する人があまり理解できない。
例えば、「家を出るギリギリまで寝て慌て仕事にいく」という人がたまにいるけれど、私にとってそれはありえなくて、少なくとも2時間はほしいです。
“ギリギリでも間に合うこと”はわかっても、“ギリギリで間に合わせること”はわからない。
だから、この本のこのページを読みながら共感してしまった。
「なぜ今なの?」を思うことをさらっとしてしまう人がいる。
「なぜそれがそんな顔で出来てしまうの?」と思うようなことをしれっとしてしまえる人がいる。 当たり前のように。何がおかしいの?と言わんばかりに。
それに対して苛立ってしまう自分がいること、理解できる。
確かに9時半を過ぎてシャワーを浴びたって、10時に間に合うなら何も問題はない。
だけどだからといって、10時に出るのに9時半をすぎてもまだシャワーを浴びていることも理解できにくい。何もおかしくはないし、誰もおかしくはない。
だから、苛立つのかもしれない。
そして、こうした違和感はよくあることだと思うんです。
「苛立たなかったと言えば、嘘になるが」に頷く。
「同時にある種感心してしまったのもまた事実で」にも頷く。
「それは、自分には絶対にできないわざだと思ったからだ。」その通りだ、頷ける。
全てその通り。頷ける。
「何で今?」と思うとき、そのほとんどがそうなんだろうと思う。
羨ましさと、間違ってはいなさと、理解できにくいもどかしさと、、、だからといってそれができたいわけではない。だけれど、やっぱり羨ましく思う気持ち。
これは確かにある。これはよくよくある。
礼那にとって礼那の行動が「ふつう」であっても、逸佳にとっては「ふつう」ではないこと、むしろ、羨ましくある行動であること。逸佳にとって「ふつうではない」ことが、礼那にとっては「逸佳の苛立ち」の方が理解できないことであること。
私が理解できないように、相手もこちらのそれすらが、理解できないこと。
どうしようもできない価値観のちがい。
人と人が一緒にいるということはこうしたことがいくつもある。
私のふつうは、相手のふつうではないこと。
相手のふつうが、私のふつうではないこと。
そういうことを、文字で見て、腑に落ちていく。
どうすることもできない。
できることは、 こうしたズレに苛立つのは、自分の中に羨ましさがあるということに気づくことだけ。ほしいわけではなくても、羨ましい気持ちがあること、その苛立ちの正体は、相手ではなく、自分が決めた常識から生まれているということ。
そういう「事」に気づく。
そういう「事」に気づける。
本を読むってこういうこと。