あの島に移り住むまで

〜「好きな本から」を書きたくてはじめたけどいろいろ書いちゃってるブログです〜

欲しいわけじゃないけど羨ましくある気持ち

 

こんばんは、なつです。 

最近、『彼女たちの場合は』という本を読みました。

彼女たちの場合は

彼女たちの場合は

  • 作者:江國 香織
  • 発売日: 2019/05/02
  • メディア: 単行本
 

 

14歳と17歳の女の子が親に内緒で旅に出るお話。そこに面白いシーンがある。

 

旅の途中、朝の9時半。散歩からホテルに帰る17歳の逸佳。

ホテルに帰ったら、いるはずの礼那がいない、、、逸佳は焦って名前を呼びます。

すると、礼那はシャワーを浴びてシャップーをしているとわかるんです。

 

10時にはホテルを出るというのに。

 

逸佳は言います。

「10時にはここを出るんだよ?」と、苛立ちながら。

そして、礼那はそれにこう返します。

「わかってる」と、なんの問題もないように。

 

そこでの逸佳の心の声

 

 

「わかってる」のに、なぜ「いまシャンプーしている」のかわからなかった。

 

苛立たなかったと言えば嘘になるが、同時にある種感心してしまったのもまた事実で、それは、自分には絶対にできないわざだと思ったからだ。うらやましさに似た感情が抗いようもなく湧く。

そういうことができたいわけではなかったが、できない自分よりできる礼那の方が心根がいいというか、人間として大きい気が逸佳はする。

 

 

このページがすごく好きです。

逸佳のこの声がすごくすごく好き。とても理解できる。

 

私はどちらかというと「逸佳」に似ています。

私の友人はどちらかというと「礼那」に似ている。

 

時間に急かされることが苦手なので、余裕を持て行動したい。だから、ギリギリに慌てて行動する人があまり理解できない。

例えば、「家を出るギリギリまで寝て慌て仕事にいく」という人がたまにいるけれど、私にとってそれはありえなくて、少なくとも2時間はほしいです。

“ギリギリでも間に合うこと”はわかっても、“ギリギリで間に合わせること”はわからない。 

 

だから、この本のこのページを読みながら共感してしまった。

 

「なぜ今なの?」を思うことをさらっとしてしまう人がいる。

「なぜそれがそんな顔で出来てしまうの?」と思うようなことをしれっとしてしまえる人がいる。 当たり前のように。何がおかしいの?と言わんばかりに。

 

それに対して苛立ってしまう自分がいること、理解できる。

 

確かに9時半を過ぎてシャワーを浴びたって、10時に間に合うなら何も問題はない。

だけどだからといって、10時に出るのに9時半をすぎてもまだシャワーを浴びていることも理解できにくい。何もおかしくはないし、誰もおかしくはない。

 

だから、苛立つのかもしれない。

 

そして、こうした違和感はよくあることだと思うんです。

 

 

「苛立たなかったと言えば、嘘になるが」に頷く。

「同時にある種感心してしまったのもまた事実で」にも頷く。

「それは、自分には絶対にできないわざだと思ったからだ。」その通りだ、頷ける。

 

全てその通り。頷ける。

 

「何で今?」と思うとき、そのほとんどがそうなんだろうと思う。

羨ましさと、間違ってはいなさと、理解できにくいもどかしさと、、、だからといってそれができたいわけではない。だけれど、やっぱり羨ましく思う気持ち。

 

これは確かにある。これはよくよくある。

 

礼那にとって礼那の行動が「ふつう」であっても、逸佳にとっては「ふつう」ではないこと、むしろ、羨ましくある行動であること。逸佳にとって「ふつうではない」ことが、礼那にとっては「逸佳の苛立ち」の方が理解できないことであること。

 

私が理解できないように、相手もこちらのそれすらが、理解できないこと。

どうしようもできない価値観のちがい。

 

人と人が一緒にいるということはこうしたことがいくつもある。

 

私のふつうは、相手のふつうではないこと。

相手のふつうが、私のふつうではないこと。

 

そういうことを、文字で見て、腑に落ちていく。

 

どうすることもできない。

 

できることは、 こうしたズレに苛立つのは、自分の中に羨ましさがあるということに気づくことだけ。ほしいわけではなくても、羨ましい気持ちがあること、その苛立ちの正体は、相手ではなく、自分が決めた常識から生まれているということ。

 

そういう「事」に気づく。

そういう「事」に気づける。

 

 

本を読むってこういうこと。

 

 

江國香織さんの『彼女たちの場合は』を📖ぜひ。