どうも。なつです。
最近、読み返してみた本がありました。
常に机の上に置いてある本なのに、常に見えるところに置いておく本なのに、「読んだ」という記憶があまりない本。1度は読んでいると思うけれど、内容をそれほど覚えていない。だけど、ずっと近くに、ずっとすぐ読めるところに置いてある。そんな一冊を、読み返してみた。
いじめっ子にはきっと読めないこの本を、人は傷つけられて傷つけていることを考えてもみない人にはきっと縁がないこの本を、読み返してみたら、書きたくなった。
小学生の頃、「他人に感情を見せるというのは、自分の隙を見せることを意味する」という世界観を手に入れた。
僕を取り囲むクラスメイトたち。
前後の経緯は忘れても「謝れよ」とすごんだり、「なんだよその顔は」と嘲笑ったりする、その彼ら、彼女らの顔は忘れない。
私は、この言葉に私の心は引き止められる。なぜなら、
「その彼ら、彼女らの顔は忘れない。」
この言葉が私の心の中にも存在しているからだと思う。
私は、いじめられた過去がある。
「いじめ」と聞いて浮かぶ「いじめ」とはちがうかもしれない。
それは「いじめ」とは呼ばないよ、と思う人もいるかもしれない。
だけど、学生時代があの時から止まっている。美化されることも更新されることもない。それが答えだと私は思う。
ただ、顔を見られて集団で笑われる。コソコソと言われる。3年間で目しか合わせたこともないあいつたちに。私一人とその他大勢で、コソコソとヒソヒソと笑われなければいけないことなんて、私は何一つなかったと思う。
入学して3日。地獄は一瞬のことだった。
何かを隠されたわけでもない、罵倒されたわけでもない、暴力を奮われたわけでもない、ただ心を壊されただけ。だから、「そんなことした覚えはない」と言われれば終わってしまう。「あれはただからかっていただけだ」と片付けられてしまえば、それでなかったことになる。
だけど、私は「一生忘れない」と思っている。
されたほうは一生覚えているのに、したほうは一瞬も覚えていない。
この言葉を心の底から知っている。それはもう「いじめ」だと私は思う。
そんな学生時代もあり、「いじめられた過去がある」という話を聞くことも読むことも苦手だ。だから、この本の「いじめられた」という過去のコンプレックスが含まれた部分は、少し早送りで読んでいる。それでも無視できなかったのが、この部分だった。
その彼ら、彼女らの顔は忘れない。
これは、これに関しては、書いておきたかった。
だって、私は忘れてはいない。
消えない傷を残すということはこういうことだということを知っておけたらいいなと思う。
してしまったことは、逃げても逃げても残る。謝っても謝っても消えない。薄まっても消えはしない。
知っておかなければいけないことだと思う。私も知っておかなければいけない。
私もそう思われているかもしれない、私もそう思わせてしまうかもしれないから。
痛みを知っていても、どこかで誰かに、そう思われているかもしれないということはある。特にこわいのは、痛みを知るまでの学生生活で、もしかしたらあったかもしれないこと。記憶にないところにあるかもしれないこと。
それが、この「その彼ら、彼女らの顔は忘れない」のこわいところ。
もし、そうだったなら、 ごめんなさい。
その彼ら、彼女らの顔は忘れない。
こんなことは、知りたくなかったことだ。
それでも、私は人に言葉なく痛めつけられるその痛みを知っている。
知りたくはなかった痛みだから、私より幼いこたちには、知ってほしくもない。
だから、書こう。だから、読もう。
そう思う。
だから、全てこうしてカタチに残るよう表現しよう。
そう思ったりしている。
何周もしてそう思っている。
私はあの頃の誰よりも「幸せになる」と決めている。
私は、〇〇高校で一緒だった、彼ら、彼女らの顔を忘れない。
あの頃に私に向けたあの顔とあの空気あの温度を私は忘れない。
〇〇高校の野球部男子と陸上部男子、そして、そいつたちと、青春していた女子たち。
私はあなたたちのことを許すことも忘れることもない。
私は絶対に許すことも忘れることも、水に流すこともしないけれど、どうぞ、勝手に生きてください。それくらいのあなたと生きてください。
私はあなたたちより何百倍も心を持って、何百倍もかわいい私と楽しい人生を生きていくので。
(紹介している『みらいめがね それでは息がつまるので』はとても素敵なエッセイです。攻撃的ではなく、弱さをコンプレックスをできない自分をなだめてくれるようなエッセイ。「ゆっくり」をなだめてくれるような優しい一冊。興味もたれましたら、ぜひ、読んでみてください)