あの島に移り住むまで

〜「好きな本から」を書きたくてはじめたけどいろいろ書いちゃってるブログです〜

誰にも言えなかった痛みも「文章」に救われる

 

 

最近、『すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫)』を読みました。

その中にこんな文章が書かれています。

 

すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫)

 

眠くなれば眠り、目が覚めると体を起こし、お腹が減れば冷蔵庫や戸棚に買い置きしてあったものを食べた。食べるものがなくなってしまうとコンビニへ行って何か適当なものを買ってきてそれを食べた。食べても食べなくても、どうでもいいようなものばかりだった。どうでもいいわたしがどうでもいいものを食べつづけて、さらにどうでもよくなっていく感じだった。

  

 

これは、主人公“入江冬子”が、家に引きこもるようになった時の言葉で。きっかけは、ある告白をしたことでした。人との付き合いを苦手とする“冬子”が、やっとの思いで好意を持っただった男性に、ある告白をするんです。ある告白とは、いつもお酒をのんでいたという告白。あなたの前にいる私はお酒をのまなければ、人と会うこともできない人なのですよ、と告げます。それをきっかけにして冬子は、しばらく体調を崩し、引きこもってしまいます。

 

眠くなれば眠り、目が覚めると少し仕事をして、何か適当なものを食べ、また眠くなり眠る、そんな生活。

 

どうでもいいわたしが
どうでもいいものを食べつづけて、
さらにどうでもよくなっていく感じだった。

 

 

 

この文章を読んだ時、手を止めました。私にはその言葉い身覚えがあった。 “過食”に悩んだ1年間に感じていたあの言葉にできない感覚は「それだ」と思った。確かにあれは「どうでもいいわたしがどうでもいいものを食べつづけて、さらにどうでもよくなっていう感じ」だったと思う。

 

“食べ過ぎ”なんて済ませられるような、可愛いものではなかった。3日分くらいの食べ物を1日、もしくは1食で食べる。美味しくもない、味もしない、お腹ははちきれそうなのに、全然“足りない”。とにかく詰めるように食べたし、何かを埋めるようにとくかく食べた。どこからか湧いてくる不安を打ち消すように「今日だけだ」と思って毎日食べる。自分でしていることのはずなのに、わけが分からなくて、電車が向かってくるのを眺めながら何度もその先のことを考えたことも1度ではありませんでした。

 

あの自分を言葉にするなら、どうでもいいわたしがどうでもいいものを食べつづけて、さらにどうでもよくなっていく感じだった』が、とてもしっくりくる。

 

入江冬子は、自分のことがどうでもよくて何も食べてないから「何か食べなくては、、、」と適当に買って食べている。私は、自分のことがどうでもよくて何も食べなくていいのに「何かを食べなくては、、、」と適当に買って食べ漁っている。

 

 

冬子と私とでは、言葉の意味、言葉の設定は、反対だけれど、

 

 
どうでもいいわたしがどうでもいいものを食べつづけて、さらにどうでもよくなっていく感じだった。
 

 

 

この感覚はきっと同じだろうと、きっと似ているものだろうと思う。

どうでもいいわたしだから、どうでもいいものを食べ続けて、さらにどうでもよくなっていく。むしろ、どうでもよくなっていくから、どうでもいいものを食べつづけて、どうでもいいわたしになっていたような気もする。あの頃を思い返すと、確かにそんな気分だったかもしれない。

 

とはいっても、 診察を受けたわけでもない、全て隠れて食べていたので、数年後サラッと話した妹からは「知らなかった」と言われたくらいでした。そんななのに、書いても書かなくてもいいようなことを書いて、「周りの気を引きたいだけじゃない?」「かわいそうと思われたいだけじゃない?」と思う人もいるかもしれない。悲劇のヒロインぶっていると呆れてしまうひともいるかもしれない。だけど、「そう思われるかもしれない」と誰にもいえず、涙をながしながら無心で食べ続ける景色をわたしは知っている。助けてほしいのに、何がどう助けてほしいのかもわからず、毎日だけが過ぎる感覚をわたしは知っている。

 

そして、それが「文章」によって救われることを知っている。

 

「ああ、わたしみたいだ。あの頃のわたしみたいだ」

「ああ、あの頃のわたしを言葉にしてくれているみたいだ」

 

そうやって、共感する言葉に救われること、過去が報われることを知っている。

 

 

本当に、文章にはそういう力がある。

だからわたしは本を読む。だから、本を読みたいと思う。報われるために、救われるために、読んでいるとは、言いきれないけれど、間違いなく読むことで「救われることがある」から読んでいる。自分を探すように読み、自分を探したくて読んでいる。

 

人に話すことができないようなことも、「本」ならば、誰にも知られず向き合えることもある。誰にも知られることなく、 わたしの意思で、「私だけではないのだ」「私以外にも知っている人がいるのだ」と知ることができる。そうして報われることはたくさんある。痛かった思いが、苦しかった思いが、感覚のなさが、言葉になっているのを見つけるのは「過去にする」という一つの動作だとわたしは思う。一つの共感で和らぐことも間違いなくある。

 

 

あの頃のわたしが、『どうでもいいわたしがどうでもいいものを食べつづけて、さらにどうでもよくなっていく感じだった』 としたら「確かにそうだったな」と心が一つ過去になったように。そうか、『食べても食べなくても、どうでもいいようなものばかりだった』から、いつまで経ってもどうでもいい自分のままだったのだと、納得することで、心が一つ片付いたように。

 

 

文章を読むことは、文章に共感するということは、そういう力がある。

 

 

わたしはそう思う。

だから、今日も本を読む。

どこかにいる自分(文章)を見つけられるように。