「俺にはわからん」
そういえば、そう言われたこともあったなと思い出した。
江國香織さんの著書『がらくた (新潮文庫)』にこんな文章があったからだ。
これまでに飽きるほど読んだり聞いたりしてきた言葉が、私のなかでふいに立体的になった。理解できた、というべきかもしれない。こういうことは、ときどき起こる。何の問題もななく理解していると思っていたものが、いきなり新しく理解されてしまう瞬間。
こうしたことは、“よくあること”だと思う。
『これまでに飽きるほど読んだり聞いたりしてきた言葉が、私のなかでふいに立体的になった。理解できた、というべきかもしれない』
・・・そういうことは、きっと誰にでもある。
ふとした瞬間に本当の意味を理解するということは、よくあることだと思う。
私にもある。
その中でも、思い出すのは17歳の頃。『これくらいのサヨナラ』という曲の歌詞がある日突然、腑に落ちたときのこと。ある日突然、この曲の歌詞が自分のものになった。
音楽スクールに通い出した頃。スクール友達とよく聴いた曲。当時、二番の歌詞をよく理解できないまま聴き、歌っていました。
ベンチに佇み あなたがまた
探しに来るの 待ち続けていたの
欠けた月より 私の欠けた心
輝けない 何も見えない
今聴き返してみたらすごくシンプルな歌詞。すごくわかりやすい歌詞。わからないほうがおかしいくらい、とてもシンプルな歌詞。だけど、17歳のわたしはこの歌詞の意味がわからなくて「どういうことだろう?」、考えながら繰り返し聴いて、繰り返し歌った。
それが突然、「ああ、そうか。そういうことだったのか」と腑に落ちる日があった。言葉の意味が映像にして理解できた。当時、一緒に練習していた友人に話した。
彼は淡々と「俺には分からん」と言った。
その時の私は「ああ、考えることもしてないのだ」と思った。
きっと友人は、約9年経った今でも同じことを言うだろうと思う。
それはさておき、言われた言葉の意味、言ってもらった言葉の意味。読んだ言葉の意味、聴いた言葉の意味、触れた言葉の意味が、数日経って腑に落ちることってきっと誰にでもある。「ああ、そう言うことだったのか」と。意味もわからないようなタイミングで思い出して理解する。そういうことが、人間には誰にでもあるだろうと私は思っている。
数日後か、数ヶ月後か、数年後か。
いくつか経って理解できる。いくつか経って忘れた頃に理解できる。
それはまるで、破れたページを拾ったみたな作業。拾ったページをテープで貼り付けるみたいな作業。理解できたというよりは、思い出したというのが近いような気もする。忘れていたものを拾った。そんな感覚。
そういうことってよくある。
『これまでに飽きるほど読んだり聞いたりしてきた言葉が、私のなかでふいに立体的になった。』
こういうことってよくある。
ああ、こんなカンタンなことだったのか。
ああ、あの言葉はこういう意味だったのか。
そうやって「言葉の意味」が立体的になる感覚。
私はそれがとても好き。
言葉の意味が、その言葉の本当の意味が、落ちるその感覚が。
とても好き。
そう思った。
『がらくた (新潮文庫)』にある言葉を読んで。