はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」
10年前といったら、私は16歳だった。そんな10年を振り返ってみて変わったことといえばそれは、「私自身」だと思う。「私らしさ」を頑張って生きていたのが16歳の私で、「私らしさ」なんて頑張らなくていいものだと気づきはじめたのが26歳の私。まるで別人のように思えるくらい変わったもの。同化することができない。10年前の「私」のはずなのに。16歳の頃の「私」も、間違いなく今の「私」の10年前の姿なはずなのに。戻れない、懐かしめない、人がちがう。どこかで人が変わったみたいに他人事に思える。ちゃんと「私」だけの“10年前”の「私」のはずなんだけど。
こういう自分でありたい!こういうキャラの自分で。
こういう評価の私でありたい!こういう位置の私で。
そういうこだわりが強かった。そういうものを追いかけることに(10代は特に)必死だった。そういう自分で在れない自分がダメな気がしていやだった。かっこ悪い自分なんてダメ、かっこよくなくちゃ。嘘であってもいいから。ちょっとくらい嘘ついたっていいから。そう考えて嘘ついた自分で笑ってみる。
嘘をつきながら笑ってみる。楽しそうに過ごしているフリをする。楽しいフリをする。満たされてるように笑ってみる。傷ついているように笑ってみる。大変そうに笑ってみる。いつもどの自分もどこか他人事だった。誰かの期待する「私」でしか在れなったから。誰かのみる「私」でしかなかったから。
そのことに疲れてしまったのが22から23歳の頃で、そこから断捨離を覚えた。手放すこと。周りの目、繕っちゃう癖、頑張っちゃう癖、その場しのぎで演じてしまう癖。
そんなことしなくてもいいってこと。分かったことは、そんなことしなくたって他人はそれほど他人に興味がないこと。変わってもそれほど他人は気にもしていないこと。気にもしないこと。寂しがることはあるかもしれないけれど受け入れてくれること。「変わったね」くらいだってこと。そりゃたまに変わったことで離れていく縁もあったけれど、そのことにそれほど傷つくことはないということ。
頑張ったって頑張らなくたってそれほど外の世界が影響を受けないのなら、力を抜いて生きることに上手になってみるのもありだってこと。頑張ったって頑張らなくたって自分自身にしかそれほど影響がないのなら、力を抜いていくことに慣れていったほうがいいってこと。そう思うようになった。
10年前の高校生の私と10年経った今の私のちがい、私は“そこ”だと思う。
それでもまだまだ力んでしまうし、それでもまだ嫌われたくなくて頑張っちゃうけれど、
疲れたら力を抜けばいい。疲れそうになったら力を抜けばいい。
そうすればいいってことを今の私は知っている。キャパオーバーになる前に力が入りすぎていることに気づけるようになったし、キャパオーバーなことに気づかないまま進んでしまうなんてことはもうない。気づけば軌道修正。気づいた時に軌道修正。手のひらを思いっきりグーで握る。5秒くらいキープしたら手の力を緩めてみる。
「力を抜く」
この意味を思い出す早い方法がいつもこの方法だった。
力が入ってるってどういうことか。力が抜けるってどういうことか。
「ああそうか、疲れてたのは力んでたからなんだ」って、少しだけ、楽になる、ちょっとした方法。
というわけで、10年で変わったことは「力を抜く」ということ。
そして「私」という人。