あの島に移り住むまで

〜「好きな本から」を書きたくてはじめたけどいろいろ書いちゃってるブログです〜

負けたほうが本当の勝ち

 

『負けるが勝ち』という言葉がある。

 

誰かに言われたわけじゃないし、誰かに教えられたわけでもないけれど、知っている。

その言葉が正しいこと。喧嘩は勝ったほうが負けだということ。

 

最近読んだスコーレNo.4 (光文社文庫)という小説の中にもこんな言葉があった。 
 

スコーレNo.4 (光文社文庫)

 

女の子の喧嘩はね、怒鳴ったり、叫んだりしたほうが負けです。

 

 

これは、姉妹の喧嘩に仲裁に入った祖母が掛ける言葉。泣いてその場を去った「妹」ではなく、声を荒げた「姉」が負けだと祖母は言った。姉の麻子は「なんで?」と返す。「泣いたのは七葉(妹)じゃない」と。泣いたほうが負けではない。泣かせたほうが勝ちではない。何が悪いか、誰が悪いか、だけではない。喧嘩は、怒鳴ったり、叫んだほうが、負けです、と言う。

  

ここで、この姉妹の祖母は「女の子の喧嘩はね、」と言っているけれど、私は決して“女の子に限った話ではない”と思った。

 

夫婦喧嘩であれ、親子喧嘩であれ、兄弟喧嘩であれ、友人との喧嘩であれ、初対面で気に食わぬ人との喧嘩であれ、怒鳴ったり、叫んだりしたほうが負けだということ。そんなことは当たり前のことではないかと思うけれど、たまに分かっていない人がいる。それを知らない人がたまにいる。

 

喧嘩は、負けたように思ったほうが勝ち。勝ったと思った方の負け。それを知らない。

 

怒鳴る、叫ぶ。力でねじ伏せようとする。

 

「威嚇する」

 

その時点で、もう負けなのではないかと思う。 

 

例えば、猫が人間に威嚇している姿を思い出してみる。

猫がしっぽを立てて、こちらを睨み、体に力を入れて、威嚇する声で鳴いているとする。そんな姿をみて、少し怖いと思うかもしれない。だけど、その姿をみて、少し笑ってしまうこともあるのではないだろうか。必死な姿に「なんか、可愛いなあ」と思ってしまうこと。

 

そういうことだ。

 

「威嚇する」ことが負けなのだ。それは負けの姿勢。

 

余裕がないから、力で大きく見せようとするけれど、大きく見せた時点で負けている。「威嚇する姿」を、「余裕のない姿」を、見せたそちらの負け。こちらに勝ちがある。

 

それを人間同士に置き換えたって同じだ。

 

怒鳴る、叫ぶ、力を振るう、怖がらせる。

弱さを隠そうとする姿を証明しただけ。負かそうとしていることがもう負け。勝っている!と振舞うことがすでに負け。気に食わないことを感情に任せてねじ伏せることが負け。勝つために「大きく見せる」それ自体が負け。

 

意外と知らない人が多い。意外と分かっていない人が多い。日常を見渡しているとそう思う。

 

言葉であれ、圧であれ、力であれ、でねじ伏せることは、負けなのだ。

 

勝つには、悔しいけれど、負けることだ。

勝つには、モヤモヤするけれど、負けることだ。

 

「スッキリする」は負けだ。

 

もちろんそうじゃない場合もある。だけど大体は「勝った」と思うことが「負け」。

 

人に怒れることが喧嘩に勝つ強さではない。

人をビビらせることが喧嘩に勝つ強さではない。

人を殴れることが喧嘩に勝つ強さではない。

人を怒鳴れることが喧嘩に勝つ強さではない。

 

それは「強さ」ではない。

 

「喧嘩にのらない」「喧嘩をしない」それが強さ。

冷静でぐっと目を開けることが、吸いたい空気をぐっと堪えられることが、空気の波をいかに変えずいられるかが強さ。

 

それが強さの本質なのではないかと思う。

 

自分の波を整えられる人、それが強い人。

 

それはとてもむずかしい。とてもむずかしいことだからこそ「強さ」なのだと思う。

 

声を荒げるほうが、力でねじ伏せるほうが、いくらか早くていくらか早く勝敗がつくけれど、だからこそ負けなのだということ。気が済んだほうが本当は負けだということ。気がすんだ喧嘩は負け。怒りは出したら負け。怒りに気づかせたら負け。

 

私は負けてばかりだけれど、私が負けてばかりだからわかる。

 

「勝つ」とは、勝たないことだということ。

 

喧嘩は、カッと心臓を波打たせた方の負けだということ。

 

勝つには、心を鍛える必要がある。

 

人に怒って、人に悲しんで、外側にとやかくいう前に、することが山ほどある。

 

心を鍛える。

 

負けたほうが勝ちなのだから。

 

勝つ前にまずそれだ。

 

負ける前にまずそれだ。

 

するべきことはまずそこからだ。

 

『喧嘩はね、怒鳴ったり、叫んだりしたほうが負け』なのだから。