『負けるが勝ち』という言葉がある。
誰かに言われたわけじゃないし、誰かに教えられたわけでもないけれど、知っている。
その言葉が正しいこと。喧嘩は勝ったほうが負けだということ。
女の子の喧嘩はね、怒鳴ったり、叫んだりしたほうが負けです。
これは、姉妹の喧嘩に仲裁に入った祖母が掛ける言葉。泣いてその場を去った「妹」ではなく、声を荒げた「姉」が負けだと祖母は言った。姉の麻子は「なんで?」と返す。「泣いたのは七葉(妹)じゃない」と。泣いたほうが負けではない。泣かせたほうが勝ちではない。何が悪いか、誰が悪いか、だけではない。喧嘩は、怒鳴ったり、叫んだほうが、負けです、と言う。
ここで、この姉妹の祖母は「女の子の喧嘩はね、」と言っているけれど、私は決して“女の子に限った話ではない”と思った。
夫婦喧嘩であれ、親子喧嘩であれ、兄弟喧嘩であれ、友人との喧嘩であれ、初対面で気に食わぬ人との喧嘩であれ、怒鳴ったり、叫んだりしたほうが負けだということ。そんなことは当たり前のことではないかと思うけれど、たまに分かっていない人がいる。それを知らない人がたまにいる。
喧嘩は、負けたように思ったほうが勝ち。勝ったと思った方の負け。それを知らない。
怒鳴る、叫ぶ。力でねじ伏せようとする。
「威嚇する」
その時点で、もう負けなのではないかと思う。
例えば、猫が人間に威嚇している姿を思い出してみる。
猫がしっぽを立てて、こちらを睨み、体に力を入れて、威嚇する声で鳴いているとする。そんな姿をみて、少し怖いと思うかもしれない。だけど、その姿をみて、少し笑ってしまうこともあるのではないだろうか。必死な姿に「なんか、可愛いなあ」と思ってしまうこと。
そういうことだ。
「威嚇する」ことが負けなのだ。それは負けの姿勢。
余裕がないから、力で大きく見せようとするけれど、大きく見せた時点で負けている。「威嚇する姿」を、「余裕のない姿」を、見せたそちらの負け。こちらに勝ちがある。
それを人間同士に置き換えたって同じだ。
怒鳴る、叫ぶ、力を振るう、怖がらせる。
弱さを隠そうとする姿を証明しただけ。負かそうとしていることがもう負け。勝っている!と振舞うことがすでに負け。気に食わないことを感情に任せてねじ伏せることが負け。勝つために「大きく見せる」それ自体が負け。
意外と知らない人が多い。意外と分かっていない人が多い。日常を見渡しているとそう思う。
言葉であれ、圧であれ、力であれ、力でねじ伏せることは、負けなのだ。
勝つには、悔しいけれど、負けることだ。
勝つには、モヤモヤするけれど、負けることだ。
「スッキリする」は負けだ。
もちろんそうじゃない場合もある。だけど大体は「勝った」と思うことが「負け」。
人に怒れることが喧嘩に勝つ強さではない。
人をビビらせることが喧嘩に勝つ強さではない。
人を殴れることが喧嘩に勝つ強さではない。
人を怒鳴れることが喧嘩に勝つ強さではない。
それは「強さ」ではない。
「喧嘩にのらない」「喧嘩をしない」それが強さ。
冷静でぐっと目を開けることが、吸いたい空気をぐっと堪えられることが、空気の波をいかに変えずいられるかが強さ。
それが強さの本質なのではないかと思う。
自分の波を整えられる人、それが強い人。
それはとてもむずかしい。とてもむずかしいことだからこそ「強さ」なのだと思う。
声を荒げるほうが、力でねじ伏せるほうが、いくらか早くていくらか早く勝敗がつくけれど、だからこそ負けなのだということ。気が済んだほうが本当は負けだということ。気がすんだ喧嘩は負け。怒りは出したら負け。怒りに気づかせたら負け。
私は負けてばかりだけれど、私が負けてばかりだからわかる。
「勝つ」とは、勝たないことだということ。
喧嘩は、カッと心臓を波打たせた方の負けだということ。
勝つには、心を鍛える必要がある。
人に怒って、人に悲しんで、外側にとやかくいう前に、することが山ほどある。
心を鍛える。
負けたほうが勝ちなのだから。
勝つ前にまずそれだ。
負ける前にまずそれだ。
するべきことはまずそこからだ。
『喧嘩はね、怒鳴ったり、叫んだりしたほうが負け』なのだから。