あの島に移り住むまで

〜「好きな本から」を書きたくてはじめたけどいろいろ書いちゃってるブログです〜

「書く」とは、どれだけ削ぎ落とせるか。

 

「書く」とは、どれだけ削ぎ落とせるかにある。・・・的なことを、いつかの本で読んだ。私は本を書く作家ではないけれど、この「削ぎ落とす作業」をできるだけ頭におきながら書くようにしている。なぜなら、「上手く(文章が)まとまらない」原因のほとんどが「削ぎ落とせない部分」にあるから。読めない文章には、「削ぎ落とせない」部分をかばっていることに原因があることが多いから。「削ぎ落とす」ということを頭に入れておかなければ、大変なことになる。いつまでたってもまとまらず、書けば書くほど読めないものになっていってしまう。だから、それができなくても、頭の中には潜ませておくようにしている。

 

これが、そうと分かっていてもかなり難しい。気に入ってしまった文章を消すのはかなり難しいのだ。「誰かに見てほしい」とやっぱり思ってしまう。「どうだ?この言い回しは!」みたいに。

 

だけどそれは、とてもとても不必要なことだと、小説『砂上 (角川文庫)』を読んで思った。改めて、そう感じた。

 

 

砂上 (角川文庫)
 
この本は、小説家になりたい『柊令央』が、出版社で働く一人の女性をきっかけに、本気で「小説を書く」ことに向き合っていく物語。令央は、自分の産んだ娘が妹で、自分の産んだ娘が母の娘、そんな自分の家族のことを物語として書いていく。
 
そんな物語のラスト、「書く」という覚悟を持った令央の姿がこうです。
 

 

出てくる編集者を女性に書き替え、服装から話し言葉にまで変え、「ことほどかようにひとりよがりな表現」を削ることに神経を遣った。いくつか気に入った文章を削いでみた。「気に入って」いることが問題なのだ。

 

 

何度も何度も書き直しても、「『自分がどうか』は捨ててください。」と言われる。「もっと主体性を出してください」と原稿を返される。そして、最後の最後、体力のギリギリ。これ以上はできない最後の最後でだしたのが、「これほどかようにひとりよがりな表現」を削り、いくつか「気に入った文章」を削った小説だった。結果、それが「本」になる。

 

私は思ういます。結局どんな文章でも、読めるもの・読んでもらうものにするには、「削ぎ落とす」ことが必須なのではないのかって。「自分がどうか」をどれだけ捨てられるかに「読める文章」の鍵があるのではないだろうかって。

 

「ものを書く」ということは“そういうこと”なのだろうと思う。

 

私は「書く」と言ったて、小説を書いているわけでもないし、書いていることが本になるわけでもない。ただ、ブログを書いている。ただ、誰もみてないようなインスタグラムの文章を、誰もみてないようなツイッターの文章を、書いている。

 

だから、「気にせず、書きたいことを書けばいい」そう思う自分もいる。

 

自分の好きなように書けばいい。

 

だけど、その「自分の好きなように書いたもの」が、誰かに届けば嬉しいと考えてしまう。「誰かに届けば嬉しい」のに、その誰かが「読める文章」にする努力はしなくていいのか?と思う。

 

だとしたら、できることは、すべきことは、同じなのでは、と。読んでもらうために、書くために、必要なことは、「自分がどうか」を徹底的に削ぎ落とすことにあるのかもしれない。書いているものを、書きたいものを光らせるのは、主体性を限りなく削ぎ落とすことに集中することにあるのかもしれない。

 

きっとそうだ。

 

“気に入っていること”が問題なのだから。

 

「読める文章を書く」には、

「読んでもらえる文章を書く」には、

「書きたいことを書く」には、気になった文章を削ってみる。削ぎ落とすことに集中する。

  

そこまでが「書く」になのではないだろうか、と何だか思う。

 

上手く書けない時、書きたいことが上手くまとまらない時、読める文章が書けない時、見直すことは、これ。

 

「ことほどかようにひとりよがりな表現」を「気に入った文章」を削いでみること。

 

なぜなら、「気に入って」いるということが問題なのだから。

 

 

PS.(がんばります!)