あの島に移り住むまで

〜「好きな本から」を書きたくてはじめたけどいろいろ書いちゃってるブログです〜

百円玉が拾えない

 

「自由ではない」とは、きっとこういうことだろう。

 

嘔吐

 

地面に落ちていた一枚の紙片を拾おうと思ったのだが、それができなかった。ただそれだけのことで、事件と呼ぶほどのことでもない。そうだ、しかしほんとうを言えば、そのことに心が深く揺さぶられたのである。自分はもう自由ではないのだ、と思った。図書館で私はこの観念を振り切ろうと努力したが、成功しなかった。

 

 

そう思う。

例えば、足元に落ちている百円玉を見つけたときで考えてみる。落ちている紙片を拾いたいと思うことはなくても、百円玉・五百円玉・千円札が落ちていたとしたら、拾いたいと思うこともあるかもしれない。それでも、本当を言えば拾いたい。でも“拾わない”ことがある。“何かが邪魔をして”拾えないことがきっとある。それは、ただ「拾わなかった」だけで、「拾えなかった」だけなのだけど、 それはもう、「自由ではない」ということでもあるという話だ。

  

何かが邪魔をして“本当を言えば”したいことができない。それはもう「自由ではない」ということではないかと思うのです。

 

この本(嘔吐)を読んだとき、それはとても重要なことだと思った。確かにそうかもしれない、と。「自由じゃなさ」はそうやってできているのかもしれないと思うのです。

 

常識といえばいいのか、大人としてといえばいいのか、、、

“何か”が邪魔をして、大人としてすぎていく日常に、「不自由さ」はあるのかもしれない。

 

この観念を振り切るのは難しいです。積み重なってしまったそれから「自由」になる事は難しいです。だけど、「自由じゃなさ」に気づくことが、反対をいくきっかけになるのだから、まず気づくことが大事なのだと私は思う。

 

「自由じゃなさ」は日常に溢れているということ。

無意識に「大人」を演じすぎていることにあるということ。

 

その大半に人は気づけていないということ、その大半に人は気づけなくなっていくということ。

 

そのことにまず気づくこと。

 

「自由じゃなさ」は日常の節々にあること。そにまず気づく。違和感に気づく。“しなくなったこと”に目を向けること。それは大事なのかもしれない。

 

「百円を拾うために」ではなくて、「紙片を恥ずかしがあらず拾うために」でもない。そのためであってもいいけれど、そうじゃない。大人にも、大人でも、「自由」がたくさんあるために。「本当はこうしたい」と思ったことを自由にできるために。『大事なこと』だと思う。

 

“何か”に邪魔され「自由じゃなさ」に疲れることがないために。

 

「本当を言えばしたかったのに“何か”によってできなかったこと」はなかったか、日常を細かくみつめ直してみるのも面白いかもしれない。