あの島に移り住むまで

〜「好きな本から」を書きたくてはじめたけどいろいろ書いちゃってるブログです〜

同じコートを着る女と着ない女。

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毎年冬になると、友人の言葉が頭を思い出す。

『あんな同じコートばっか着てる女より、私のほうがいい』

 

去年と同じコートを着ようとする自分に躊躇する。何となく「いけない」ような感覚が自分の常識になりつつあることに気づいて、こう思う。

 

 

 “同じコートの何がいけないの”

 

 

確かに上着は印象が残りやすいものだと思う。ワンシーズン着れば、新しく変えたほうがいいのかもしれない。同じファッションに見えやすいから。

 

「まただ」

「まだ着ているのか」

「このコート、何年目だろう」

 

見た目を大事にしている人なら、自分以外のそれまで気になることなのかもしれない。もしかしたら、“ふつう”は誰でも気になるものなのかもしれない。だけど、正直どうでもいい人がここにいある。そこにある「ふつう」って何なのか。そこにある「ふつう」って何の意味があるのだろうか。私はどうしても思ってしまう。

 

毎年ちがうコートを着る。

毎回ちがうコートを着る。

いくつかコートを持っている。

 

なぜそれが自主的ではなく、誘導されなければいけないのか、よく分からないでいる。

 

確かに、お洒落な女の子は可愛い。トレンドを抑えている女の子は可愛い。自分らしくファッションを楽しんでいる女の子は可愛い。そう思う。 

  だけど、「ふつう」はみんなちがうのに、そこには「自由」はないんだ、、、とも思ってしまう。みんな同じコートを着ていないように。それぞれが「自由」なはずなのに、全く「自由ではない」世界にもどかしくなる。

 

コートの一つくらい買えばいいだけの話なのだけど、コートの一つくらいの話だから余計に思う。

   

私の額に『烙印』のように残っているこの言葉を。

 

『同じコートばっかり着てる女』 

 

いつ振り返っても@手厳しいなあ(笑)」と思う。私に向けられた言葉ではなかったけれど、手厳しいなあ、と思う。見た目に気を使っているから、見た目を大事にし管理し努力しているからこそ、漏れた言葉だろうけれど、「一体どこからそんな価値観を拾ってきたのだろうか」と考えて、笑ってしまいそうになる。

 

 誰があなたにそんなことを教えたの?ご両親?友達?テレビ?

 

どこからこうした価値観は生まれるのだろう。誰も幸せにならない価値観なのに。

 

みんな同じだって、みんな違ったって、何だっていいはずなのに。毎年同じだって、毎年違ったって、何だっていいはずなのに。

 

別れた彼と付き合いだしたあの子と別れたあなたは「コート」でそうなったわけではないのに。「あの女より私の方が」という時にコートは関係ないはずなのに。女という生き物は、人間という生き物は、何かにつけ言いたくなってしまうのだと、当時を振り返って改めて思う。

 

問題は“そこ”ではなく、問題は“そこ”だというのに。

 

「あんな同じコートばっかり着てる女より、私のほうが」という、それこそが問題なのに。

 

 

気をつけなければいけないなと思う。

 

「私のほうが、」

 

・・・・この言葉を私も使うことがある。

「私の方が可愛いのに」「私はこんなに可愛いのに」

半分本気、半分冗談で、プライドか自分をかを保つために使ってしまう。

 

気をつけなければ、と思う。

 

誰を引き合いに出しても、何を引き合いに出しても、それに意味はない。

 

その無意味さは私がよく知っているはずなのだから。

その言葉を耳にする違和感を私がよく知っているはずなのだから。

 

言うほうには簡単でも、聞かされれる方には違和感でしかないものだと、私がよく知っているのだから。

 

持つもので「人」との距離をはかってはいけない。持つもので「心」をあげることはしても、持つもので「自分」をあげてはいけない。「人」を引き合いに出してはいけない。そんなことは“当たり前”なのだから。

 

当たり前で、当たり前ではないから、気をつけなければいけないのだ。

  

毎年同じコートを着てもいいじゃない、毎年違うコートをきてもいいじゃない。毎日何を着たっていいじゃない。見た目はどうしても大事だけれど、見た目は確かに大事だけれども、誰かを、ものの価値観を、引き合いに出して自分の価値をはかったって何の意味も持たない。 

 

生むのは、聞かされる方の違和感だけだ。

 

気をつけよう。

 

そう思う。そう思った。

 

「あんな同じコートばっか着てる女より、私のほうがいい」

 

あの『烙印』は、そんなことを当たり前のことを学ぶためだったのかもしれない。そんな当たり前のことが当たり前ではなくなるから気づくためにあったのかもしれない。

 

そう思う。