あの島に移り住むまで

〜「好きな本から」を書きたくてはじめたけどいろいろ書いちゃってるブログです〜

「かわいい」とは何なのか。

 

「かわいい」には割と悩んできたほうだと思う

 そう思っている私が「わかるような気がする」と感じた文章がある本の中にあった。

 

 

たびたび今日のように無駄に終わった日に、私は自分の顔を眺めて時を過す。自分にはこの顔がちっともわからない。他人の顔はひとつの意味を持っているが自分の顔にはそれがない。自分の顔が美しいか醜いかを決めることさえできない。醜いと言われたことがあるから、そうだろうと思う。しかしそう言われても腹立たしくはない。結局のところ、人が土くれあるいは岩の塊などを美しいとか醜いとか言うみたいに、そういう種類の性質を私の顔に与えることができるというのが、気に障るのである。

 

この文章が、私には少しだけ理解できる。ただ一つ、『しかしそう言われても腹立たしくはない。』この部分だけを除いて、少しだけ、理解できる。

 

そもそも、美しいだとか醜いだとかって一体何なのだろうかと思う。決まった基準があるわけでもないのに、振り分けようするそれが理解できない。「かわいくなりたい」」そう思うのと同時にいつも考える。「かわいいって何なのだろうか?」

 

一体何なのだろう?

「私が」か、「私たちが」か。気がつけば追いかけられているこの「かわいい」とは、一体何なのか。なぜ「かわいい」が当たり前なのか。なぜ「かわいい」が当たり前にこの世界にあるのか。

 

美しいとは離れてしまうけれど、考えてみる。

 

鏡を見る。私はどんな顔なのだろうか。鏡に映る顔、写真に映る顔、これが私の顔なんだろうか。この顔は、可愛いのか、可愛くないのか。

 

主人公である“ロカンタン”は、醜いと言われたことがあるから、自分の姿はそうなのだろうと言っている。

 

私はどうか。可愛いと言ってくれた人もいたし、ブスだと笑った人もいた。どちらなのだろうか。できれば可愛いを信じたいと思っているけれど、ブスという言葉もまちがいではなかったような気がするから、「“かわいいを信じたい”かわいさ」をしているのが私なのでは、と思う。

 

なら、醜いと言われれば醜いのか、綺麗だと言われれば綺麗なのか。

 

それもよく分からない。「かわいい」なんてものは、右・左と振り分けようとするからあるもので、比べる対象を作るからある。「かわいい」も「ブス」も、誰かと比べてあるものなら、それに何の意味があるのだろうか。それはどこにいけば、終わりがくるのだろう。

 

終わりがないのなら、「比べる」対象をなしする方が早い。そうすれば、「かわいい」も「醜い」もない。「かわいい」にも「醜い」にも意味なんてなくなる。

 

自分でどうかを決めること。

自分がどうかを決めないこと。

 

「かわいい」とか「美しい」とか「醜い」とかに悩んだら、そこに戻ってくる。それが、本質に戻るポイントなのだと思う。委ねるから揺れるのだから。

 

「かわいい」には意味があるようで意味がない。意味に正解があるようでない。ゴールはあるようでない。

 

岩や植物や犬や猫にだって「かわいい」という。

 

「かわいい」という言葉はそういうもの。

 

だけど、そういうものでは済ませられないもの。大事なもの。馬鹿みたいと思うのに、切り離せない、諦めきれないもの。

  

追いかけ続ける、追いかけられ続ける。

 

『かわいい』

 

それが魔法であればいいけれど、魔法ではない時、思い出したい。魔法ではなく呪文になってしまっている時、『かわいい』とは何なのか、どういうものか、を考え直すために、読み返したい。

 

『J-Pサルトル嘔吐』という1冊の本を、その1ページを、その文章を。