「そのどちらも、とても簡単なことではない」と私は思う。
死のうと思っても惣一郎のように行動に移さなかった。死ぬということは思ったよりも大変な行動であることが分かった。死にたいという思いと実際に死ぬということには大きな隔たりがあった。
この言葉を本で読んだ時、改めてそう思った。
この言葉は、『右岸』の主人公である「九」の言葉だ。慕っていた幼馴染の惣一郎が、12歳の時、「自殺」をしてしまう。「死」はどういうものかという興味から惣一郎は帰らぬ人となった。「少し知ったら、戻るつもりだった」と「戻りたかったけれど、戻れなかった。『死』とはそういうものだった」と惣一郎は言った。死んだ惣一郎の言葉がなぜ九は理解できたかといえば、小さい頃から九には不思議な力があったから。その力のおかげで、いなくなった惣一郎の声を聞くことができた。理由を聞いても消えない悲しみに、九は惣一郎の後を追おうとするが、できなかった。そんなときに呟く言葉だった。
九のそれは、とても理解できる言葉だと私は思う。
「死にたい」と「死のう」と思ったとしても、そう簡単ではないこと。よく理解できる。「死にたい」と、どれだけ心の全てで叫んでも、それがどれほど本心の言葉でも、実際、それをするにはもっともっと大きな壁がある。分厚く恐ろしい壁が。
それでもその壁を超えてしまう人がいて、その壁を超えてしまえる人がいる。
私たちにはよく理解できること。
どう結論を出してみても「良くない」ことだけれど、壁を越えてしまった人たちへ何も言えないことも、人は知っている。認めないことも、認めることもできないこと。なぜなら、その決断が、簡単ではなかったことを知っているから。そして、「生きる」ことを選び続ける方が簡単ではないことも、心のどこかで知っているからだ。
「なぜ、、、」と、簡単には言えない。「逃げてくれれば、、、」とも、「別の選択を、、、」とも、「生きろ!!」とも言えない。そう思いとどまるよりも、大きな壁を越えて行ってしまえたのだから。その壁は決して優しいものではないはずなのに、薄くも柔らかくも簡単でもないはずの壁なのに、越えていったのだから。それがどれほどのことだったかを思うと、悲しみだけで、頷くしかできない。言葉は持てない。
九は惣一郎の最後の姿を見た人だ。その分、悲しみで後を追いかけようする。でも、できなかった。そして、そうしなかった。そんな九が、口にする
死のうと思っても惣一郎のように行動に移さなかった。死ぬということは思ったよりも大変な行動であることが分かった。
この言葉。
実際、本当に思っても、本気で思っても、「死のう」なんてできないことの方が多いのではないだろうか。私はそうだったから。“ふつう”は、“本当”はできないはず。「死のう」とするそれ自体がもう“ふつうd”ではないけれど、多く人は行動できないし、行動しない。心から、心の底から、「死にたい」「死のう」と苦しんで叫んでも、それが本心でも、実際に行動するには、どうしても、もう一つ大変な壁がある。その壁に背を向けてもう一度「生きる」ほうへ戻っていく。
ほとんどがそうであるだろうし、ほとんどがそうであってほしいと思う。
数年前、馬鹿みたいに考えていた。毎日考えた。
「消えたい」
「消えてしまおう」
ホームから眺めた電車の景色に、あるはずない1秒先の未来を想像して、ハッとして「生きる」方へ戻ってくる。毎日がその繰り返し。想像してみるけどできなかった。一瞬のことだと思ってもこわかった。とても、できることじゃなかった。「生きたい」と思った。
死のうと思っても惣一郎のように行動に移さなかった。死ぬということは思ったよりも大変な行動であることが分かった。死にたいという思いと実際に死ぬということには大きな隔たりがあった。
これが全てだと思った。
あの頃の全て。この言葉だ。
あの馬鹿みたいな日々が文章になっている。
私にしかわからない。その気持ちが嘘だったか、本当だったか。
それだけでもすでに恐ろしかったあの“こわさ”の真実は。
越えていった人たちにも、越えようとした人たちにも、言葉はない。
掛けていい言葉も、持てる言葉も。
言葉があっていいわけがないのだ。
『右岸』という本の
九の言葉が、その全てを含んでくれている。
それを何度もその部分を読み返すだけ。
九の言葉の世界を、ぜひ、読んで感じてみてほしい。