働きに行くこともできない、自分を変えることもできない、今を変えることもできない。でも、生きている。生かされながら生きている。私は25歳。もう25歳。これではいけない。でも生きている。生きてこれている。
これではいけないのだろうか?
このままでは、、、やっぱり、、、
いけないのだろうか?、、、こうして「生きている」だけでは、それだけでは、許されないのだろうか。
そう思って頭を抱えたことがあった。そう思いながら過ごした日々があった。ちょうど一年前くらいのこと。「そんなこともあったなあ」と、『去年の雪』という本を読んで思い出した。
この1LDKのアパートに、有為子は大学に入学したときから住んでいる。家賃は寛大にも両親が払ってくれているのだが、もし自分が会社をクビになったりしたら(そして、この調子ではそれもそう遠いことではなさそうに思えるのだが)、さすがに払い続けてはくれないだろう。そうなれば宮城の実家に戻るよりないが、戻って何をすればいいのだろう。地元の会社に再就職する(そしてまた会社を休む)?見合をして結婚する(そしてまた家事をさぼって離婚される)?人は、どうして何かしなくてはいけないのだろう。何もしないで生きているだけではいけないのだろうか。
「有為子」に私は共感する。「有為子」の姿に私の心が重なる。まさにこの姿の通りのことを感じた日々があったからだ。
『 人は、どうして何かしなくてはいけないのだろう。何もしないで生きているだけではいけないのだろうか。』
私も、そう思う。
なぜ、人は何かをしていなければ存在する理由が持てないのか。人はなぜ、何かをしてなければいけないと思うのか。なぜ、そうなのか。何もしないで生きていたっていいのではないか。そういう人がいたっていいのではないか。そう思う。
そう思う自分が確かにいる。
何かをしてなければ生きられないのは、なぜだろうか。生きているなら、生きていられるなら、それだけであってもいいのではないか。それだけである人がいてもいいのではないか。私も「有為子」と同じことを世界に思う。
バイトを辞めたら、新しく働く場所を探さなければいけない。家賃が払えなくなったら、家に戻るか、その日暮らしで探さなければいけない。恋人がいなくなれば、新しく恋を探さなければいけない。朝起きたら、顔を洗って、歯を磨いて、生活をしなければいけない。 人は、何かをずっとしている。何かいなければいけなくなっている。
“何かを”していなければいけない。“何かを”必ずしていなければいけない。
誰もが理解できる。誰もが想像する。社会の、人間の、常識。
『何かしていれなければいけない』
『何もしないのはいけない』
それが“当たり前”の日常
なぜだろうか?
何もせず生きているだけではダメなのだろうか。何かをせず、でも生きている。それだけでは、やっぱり、いけないのだろうか。
なぜなのだろう?
不思議に思う。
この世界がそうしてできていることを。
なぜなのだろう?
生きろと言うわりに。
むずかしいことを言う。
何なのだろう。
これって、おかしいことなのではないか?
なのになぜ、おかしいと思うこと自体が“おかしい”になっているのだろう。何もしないことがなぜこんなにも「ダメ」なのだろう。「ダメ」になってしまったのだろう。
考え出すと、とことん、不思議で仕方なくなってくる問題。
そうは言ってもわかっている。「しなければいけないこと」が「していなければいけないこと」があること。そうは思っても、実際は何かしらしなければいけないということ。理解している。
だけどそれでも、反抗してみたくなる。逆を向いて走り抜けてみたくなる。
そんな心を、そっと肯定してくれるような文章だった。『去年の雪』にある言葉は、『去年の雪』にいる「有為子」の姿は。
人は、どうして何かしなくてはいけないのだろう。何もしないで生きているだけではいけないのだろうか。
この言葉の答えを“いつか”導き出したいなと思う。
できることなら、堂々と、「いけなくないよ」と言いきれる女になりたい。そう思う。