あの島に移り住むまで

〜「好きな本から」を書きたくてはじめたけどいろいろ書いちゃってるブログです〜

際限なく引き出せるやさしさなんてない

 

ずっと、こう言うことを言いたかったのかもしれない。 

 

 

みちづれはいても、ひとり (光文社文庫)

「他人から際限なく引き出せるやさしさなんてないんだよ、楓さん」

 

 

いつも下手だった。自分のキャパシティに合わせて行動することが。今も下手だ。

例えば人間関係。追いかけられると逃げたくなったり、求められると逃げたくなったりするくせに、自分からいい人になりすぎてしまうこと。ただ純粋に、これからのために仲良くなりたい、と始まっただけなのだけど、過ぎてしまうようだった。話しかける、話を聞く、話をする、盛り上げる、笑いかける。愛想の良い人というのか、感じの良い人となるのが必要以上にうまいのかもしれない。想像以上に期待させてしまう。「優しい人」、「許してくれる人」、というふうに。それに疲れる。しかも疲れやすい。自分でしたことの結果なのに、息苦しくなって、逃げるように去る。相手にしてみれば「何だよ、別にお前なんていらねえよ」って感じかもしれないけれど、そうなる時、昨日までニコニコした相手の目が急激に温度度を下げていく姿は何度もあった。

 

そもそも、上の文章、は、小説『みちづれはいても、ひとり』の中にあるものだ。同じマンションに住む「楓」さんと「弓子」が、旅に出かける。弓子は行方不明の元夫にもう一度会うため、楓はいろんなものを吹っ切るため。そんな中、旅先で出会った男といい感じになる楓は、その男とホテルに行く。朝起きると男はいない。見ると財布は盗まれていて帰れそうになかった。旅先で助けてくれるような人は、一緒にきている弓子しかいない。連絡をとり迎えにきてもらうことになった。

  

「甘えすぎてしまいそう」

 

そう漏らす。そう漏らす楓に弓子はいう。

 

「他人から際限なく引き出せるやさしさなんてないんだよ、楓さん」

 

本当にそうだなと思う。本当にそうだ。

 

他人から引き出せるやさしさなんて限界がある。私自身が私以外に与えられる「やさしさ」に限界があるように。私自身が誰かから受け取る「やさしさ」に限界をみるように。与えられるやさしさには限界がある。まず、自分が与えたものと同じものが返ってくるとは限らないし、ずっと同じものが与えられ続けるとは限らない。人は変わっていく。日々変わっていく。相手だけが変わったわけでも、自分だけが変わってないわけでもない。どちらもが変わる。人は変わる。“他人”から引き出せるやさしさなんて限界があるのは当たり前のことだ。

  

「なつは優しいから」

 

これが「やさしさ」からだったってことは、ちゃんとわかっている。そう言ってくれた人たちが心からくれたこと。心からくれた「やさしさ」だったってこと、ちゃんとわかってる。好いてくれているからこその表現で、必要とされているからこその言葉。それが私の立ち位置で、できること。私らしさ。わかっている。そういってくれる人がいることのありがたさも。わかってる。

 

それでもいつも言いたかった。

 

「あなたにとって私は、確かに優しいのかもしれないけれど、『他人から際限なく引き出せるやさしさなんてない』んだよ」

 

ずっと同じではいられない。

 

日々触れる価値観でどんどん変わっていくから。昨日と同じでも、こないだと同じでも、周りと同じでもいられない。期待通りには進めないし、そのままではいられない。

 

だから、わかっていてください。

 

「他人から際限なく引き出せるやさしさなんてないんだよ」

 

ってこと。 

人と人は、個と個だから。家族でも恋人でも友達でも同志でも同僚でも後輩でも先輩でも他人でも、「際限なく引き出せるやさしさなんてない」ってこと。

  


 

ずっと言いたかった。ずっと、こうした言葉を言いたかったのだと思う。私の勝手な行動に目の色をトーンダウンさせる人たちに。身勝手に寂しくも言いたかったことはこうした言葉だったような気がする。小説『みちづれはいても、ひとり』にあるこの文章を読んだ時、そう思った。

 

ああ、私って、ずっとこういう言葉を言いたかったんだ。

ああ、私って、こうした言葉を言えていたらよかったんだ。 

 

って。