「眩しく思うことがある。____音楽番組は眩しくて嫌いだ。」
そう思っている私の心を揺さぶる文章があった。『インディペンデンス・デイ』という本の中、こうある。
最近、マンガ雑誌を買わない。視界にも入れないようにしている。あたしがどうしても到達できないこの世でもっとも華やかな場所が、あの中にある。そう思うと、言い知れぬ敗北感に苛まれるのだ。
「一人の女性に、一つの独立を!」
そう書かれてた帯を纏ったこの本は、まさに、出てくる全ての女性が一つの独立を掴んでいくお話。3年間に起こる一人一人の「独立記念日」を覗き見ることができた。その中の一人、マンガ家志望で東京に上京した女の子が(上の言葉を)呟いている。
マンガ家になるために上京したのに、それが並ぶ場所が、自分にとって、最も華やかで到達できない場所になってしまった。彼女の姿を文字で追いながら、そのページに付箋を貼った。似たような感覚を持って過ごしているように思ったからだった。
私にとって「音楽番組」がそうだ。映像を通してみる「歌手の姿」がそうだ。最近の「歌手・アイドル」たちのドキュメンタリーやインタビュー記事なんかもそう。
眩しすぎて、何ともいえない。黒い煙が体内を渦巻いていく。最も眩しく、永遠に到達できない。その道をいく姿が眩しくて、素直に、言葉を出せない。楽しめない。言い知れぬ敗北感に苛まれながらテレビを見る。彼彼女らにとって1秒も敵となったことがないくらいの私なのに。目の前で歌う姿に、夢を叶えたその姿に、敗北感を覚える。眩しい。
馬鹿みたいだけど、そうなのだ。
流行りの音楽、流行りのエンタメ、流行りの真ん中にいる人々、眩しい。
この「好かない」という感覚は、眩しい感覚なのだと思う。この「好かない」という感覚は、そう思ってしまう自分への敗北感なのだと思う。
カラオケの得点を競う番組なんて特に嫌いだ。ヘッドフォンを耳に当てて見定める芸能人が大嫌いだ。プロダクションの人間であれ、育成するプロであれ、エンターテイメントのプロであれ、その姿勢が、その視線が、その姿が、大嫌いだ。その姿すら、エンタメであっても、嫌いだ。
何を見せられているのかと思う。揺るがないものは、揺るがないのに。
ただ、眩しいのだと思う。
どうしても到達できないこの世でもっとも華やかな場所が。
誰にでもきっと「眩しい」場所がある。避けたいもの、遠ざけたいもの、好かないもの。
甲子園に出られなかった父が甲子園を見ることも、球場に近寄ることもしなかったように(息子が野球を始めるまで)。甲子園で負けた弟が、その年、その後の試合をみることも、夏のテーマソングを聴くことも嫌がったように。
誰にでもあるはずだ。
「嫌い」とか、「いやだ」とか、「ムカつく」とか、「好かない」とか。そして、そう思う理由は単純。眩しすぎる、華やかすぎるだけ。
その感情はダメなわけではないと思う。そうやって心を燃やして生きるもの大事。そうやって心を守るのも大事。ただ、燃えうつそうとしなければいい。ただそれだけだと私は考える。
誰にだって「好かない」ものくらいある。あると思いたい。
この感情は、私が感じるこの感情は、この言葉にある意味が全てだと思う。
最近、マンガ雑誌を買わない。視界にも入れないようにしている。あたしがどうしても到達できないこの世でもっとも華やかな場所が、あの中にある。そう思うと、言い知れぬ敗北感に苛まれるのだ。
ただ、それだけのこと。
ただ、それだけのことだ。