あの島に移り住むまで

〜「好きな本から」を書きたくてはじめたけどいろいろ書いちゃってるブログです〜

人には「そこそこ」という看板が必要

 

最近、桜木紫乃さんの『それを愛とは呼ばず (幻冬舎文庫)』を読んだ。

その中に、「ああ、そうか」と思うところがあった。「ああ、そうだなあ」と。

 

それは、女優志望の"紗希"と言う女性の言葉。

その時、紗希は事務所の契約を切らてしまうんです。マネージャーに言われたことは信じてやってきたのに、まわりからの期待に応えられるようにやってきたはずなのに、ダメだった。期待させられながら、頑張って、でもダメだった。なぜ、だめだったのか。。。

 

終止符を打たれてしまった紗希は考える、「それなら、結婚でも」と。

そして、思い出してこう言うんですよね、心の中で。

 

考えたこともなかったが、姓の変わった年賀状が何通かあったことを思いだした。郷里の友人たちとはもうほとんど付き合いが途絶えている。報せをもらって素直に喜んであげられるような日々ではなかった。祝い事の報せは、受け取るほうにも「そこそこの暮らしをしている」という看板が必要なのだ。 

 

 

私にとって、その言葉は全て「確かに」だった。

 

私も、自分のやりたいことに必死な日々をおくってきて、人からもらう報せを素直に喜ぶことは中々できなかった。喜んであげる余裕が本当になかった。いくら「やりたいこと」に向かって頑張っているとはいっても、何も残らないものを追いかけるばかりで、「めでたい報せを喜ぶ余裕」なんてほとんどなかった。報せを喜んであげられるようなそんな資格を私は持ってはいなかったし、持つ自信もなかった。そんなことを言い訳に、途絶えてしまったご縁は多かったかもしれない。

 

必死な日々に足を止めた時、私も考えたことがある。

 

「結婚でも、、、」

 

そんなことあるわけない。

紗希は綺麗な女優さんだからあるかもしれないけれど、私にはない。自分のことばかりだったのにそんなものあるわけもない。

 

だからと言って、それに対して後悔したこともないけれど、人からの報せに喜ぶのに「そこそこの暮らしをしている」という看板が必要というのを読んだ時、腑に落ちるものがあった。何となく繋がった。自分の行動や思考を少しだけ理解できたような気がした。

 

なぜ、“そんな”だったのか。なぜ、私はそうなのか。

 

「報せ」に限らず、例えば、人と会うことに自信がなくなるとき、人の話を聞いてあげられないときもそう。思えば、そういう時期は必ず、自分に自信がない時、余裕がない時で、「そこそこ」の看板をもあげられない時だった。

 

 ああ、そうか。人は人から何かを受ける時、「そこそこ」でも受けるための余裕が必要なんだ、って思った。

 

考えてみれば、そんなの、そうに決まっている。

 

人の幸せを喜べるのは、喜ぶ側の心にも「そこそこ」の余裕があるからで、

人の話に耳を傾けられるのは、聞く側の心にも「そこそこ」の余裕があるからなんだから。

 

人の幸せを喜ぶには、喜ぶ側の心に「そこそこ」の余裕が必要で、

人の話に耳を傾けるには、聞く側の心に「そこそこ」の余裕が必要だなんて、そりゃそうだ。

 

人には、「そこそこ生きている」「そこそこ楽しい」「そこそこ幸せ」「そこそこに暮らしている」という看板が必要なんだ。自分自身に、それを持たせてあげることが大事なんだ。

 

受けるにも、受け取るにも、喜ぶにも。余裕が、看板が、必要なんだ。 

 

自分だけじゃなくて、自分以外の報せにも喜“べる”ために。

自分以外の報せも自分の報せも心から喜“べる”ために。

捨てたり、諦めたり、逃げたり、避けたりするのではなくて、“喜べる”ために。

 

 

そんなことを考えた。

そんなことを思った。

 

そんな1ページ、『それを愛とは呼ばず』

 

それを愛とは呼ばず (幻冬舎文庫)

それを愛とは呼ばず (幻冬舎文庫)

  • 作者:桜木 紫乃
  • 発売日: 2017/10/06
  • メディア: 文庫