最近読んだ松浦弥太郎さんの暮らしの手帖日記にこうある。
みなさんこんにちは。
今頃の夏の暑さで体調を崩していませんか?
あまり無理して頑張らないように。
こういう季節は、静かにゆっくり、ほのぼのと過ごすに限ります。
まだまだ暑さは続きますから、おからだをお大事に。
私はこれを読みながらふと気付くことがあった。
「無理しすぎず、ゆっくりね」
「力を抜いて、ゆっくりね」
こうした言葉は一年中ある。生活の中にこうした言葉は溢れている。
新生活が始まる春には「ゆっくり頑張ってね」と、少し疲れが溜まってくる5月には「ゆっくりね」と。暑い夏を迎え過ごしながら「ゆっくり」といって、肌寒くなりはじめた秋への変化にまた「ゆっくり」という。寒い冬を迎えながら「ゆっくり」といって、「ゆっくり」と思いながら慌ただしく過ごす日々に「ゆっくり」という。
「ゆっくり過ごしてください」と、「ゆっくり頑張っていきましょう」と。
1年中「ゆっくり」という言葉が届けられている。どんな時でも、どんな人にも、届けられている。
なのに何故だろう、不思議に思う。
届いてはいない、みんな「ゆっくり」とは反対に急かされるように生きている。
「そういえば」と思った。この本のこの文章(引用した部分)を読みながら。
口にして、文字にして、これほどに望まれ伝えられているメッセージなのに、私がみる世界の限りでは、みんな忙しなく生きている。知っている人も、街ですれちがうような知らない人も。みんなみんな「ゆっくり」とは反対の姿をしている。
だからこそなのかもしれない、だからこそ溢れているのかもしれない。
「ゆっくりいきましょう」と。「ゆっくり、ゆっくりね」と。
私は思う。
この言葉が決して物理的に「忙しい」人だけのものではないってこと。
誰にでも届けられる言葉だ!ということを思っている。
どんな人にも全ての人に「ゆっくり過ごしてください」と言いたい。
一日外で働いた人も、一日家で働いた人も。一日出かけた人も、一日家にいた人も。みんなみんな頑張っている。「ゆっくりね」と言いたい。一日中寝ていたとしても寝ることだって体力がいるし、1日中ゲームをしていたって思考を使っている。「力みすぎずゆっくりね」と言いたいし、家事をする人にも、仕事をする人にも、どちらもこなす人にも、やっぱり頑張って過ごしていて「無理しすぎずゆっくりね」と言いたい。毎日しない人、毎日何もしない人、毎日休んでいる人だって「気をおいすぎずゆっくりね」と言いたい。
人は無意識下に心を慌ただしく揺らしながら生きている。ボーとしていても何かを考えている。一人でいても誰かといても寝ていても起きていても思考や心を常に張り巡らして生きている。それはもう十分頑張っている証で。どんな人だって誰だって「ゆっくり過ごしてね」と言えるのではないだろうか。
何もしていない人はいない。
頑張っていない人なんていない。
もし頑張れていなくても、もし頑張っていなくても、それはもう頑張っているからこそあるものだと気付いてほしい。どう思っていても、どう見えていても、生きていることが頑張っている証だと私は思う。
すでに頑張っている。十分頑張ってる。
だから、「ゆっくりね」
あまり無理して頑張らないように。頑張りすぎないように。
大丈夫。静かにゆっくりていねいに。
「ゆっくりお過ごしください」