どうも、こんばんは。なつです。
最近、糸井重里さんの『思えば、孤独は美しい。』 という本を読みました。
この本を読みながら私は考えました。
何をって、 私の両親が「勉強しなさい」と言っていたその言葉の意味についてをです。
なぜかというと、こう書いてあったから。
たとえば、こどもに「勉強しなさい」とよくいう親は、勉強することによって、こどもに身につけさせたいなにかしらを望んでいるのですよね。
ぼくは、「勉強しなさい」と言われないほうの親でした。でも、なぜ「勉強しなさい」と言わないのかについて、それなりにずいぶん考えました。いろいろなことを考えたあげくに、わかったことがありました。
みなさんは、どうでしたか?
「勉強しなさい」とよく言われましたか?それとも、あまり言われませんでしたか?
私は、あまり言われずに育ちました。
「勉強しなさい」と当時は言われてるように思っていたけれど、実際思い返すとそんなに言われてなかったなと思います。「勉強しなさい」と厳しく言われた記憶が、ほどんどないからです。
「勉強しなさい」「宿題しなさい」
そう、言われたことはあります。
だけど、厳しかったことも、怒られたことも、ほとんどなかった。
「(困らんように)勉強しいや!」はあったけど、「勉強しなさい!!」はなかった。
学校に行っていること
健康であること
楽しくやれていること
これが揃っていればいい、と言ってたこともあるくらい、ほとんど何も言わなかった。平凡な成績で笑って満足してくれてました。
中学に入って試験結果が受験に関わるようになった、
高校に入って試験結果が卒業に関わるようになった、
試験結果が将来に関わってくるようになって、
「勉強しなさい」と言われることは確かにあった。
だけどそれも、「好きなことをしたいなら、勉強してからにしなさい」だった。確かそう言ってました。
携帯したいなら、勉強もしなさい
漫画を読みたいなら、勉強もしなさい
遊びたいなら、勉強もしなさい
何かをしたいなら、勉強もしなさいと。
それを思い出して考える。
私の両親が言っていた「勉強しなさい」「勉強もしなさい」の意味、、、、
私は気づいたことがある。
私がもらっていた「勉強しなさい」の意味。
それは多分、外で怒られないように、外で困らないようにだったということ。怒られて泣かなずに済むように、できなくて泣かなくていいように。“勉強もしなさいよ”と。
そう言っていたのだと思う。
九九ができずに泣いてた小学2年生、漢数字が読めなくて泣いて帰ったこともある。勉強ができるほうではなかったし、人より何でもおそいタイプだったので、勉強のことでよく泣いた。できなくて泣いた。
そんな私を私より知っているから「勉強しなさい」だったんだ。
そう思えてきます。
それを考えると、妹と弟が「勉強しなさい」と言われてる姿をほとんど見なかったことも納得がいく。それなりに、要領も頭もよかった二人は、言われなくても必要な分の勉強をしっかりとやっていたからで、成績も心配なかったからで、分からなくて怒ることはあっても(笑)泣くことはなかった。だからだったのだと思う。
私が外で泣かないですむように
私が外で楽しく外で過ごせるように
私が外でそれなりに生きていけるように
「勉強しなさい」という言葉があったのではないか、と。なんだかそう思った。
ちなみに糸井さんの考えられた、ご両親が「勉強しなさい」と言わなかった理由については、ぜひ、手にとって読んでみてください。
みなさんは、どうですか?
言われてきたほうか、言われてこなかったほうか。
もしくは、言ってきたほうか、言ってこなかったほうか、ということもあるかもしれません。
私はまだ後者を経験したことはないけれど、大人(特に親)が口うるさくいう言葉は全て想いあってのことだということを、今になって感じます。もう言われることがなくなってみて気づきます。
「勉強しなさい」も愛だったんだなあ。