私の世界のうちとそと

〜「好きな本から」を書きたくてはじめたけどいろいろ書いちゃってるブログです〜

パスタの意地悪

 

「若いから」 というのは理由にあるのかもしれない。

今のアルバイト先で働きはじめた時、年上の先輩が一人と年下の先輩が四人という環境だった。年下の先輩はほとんど教えてはくれなかった。聞けば教えてくれたが、こちらが聞かなければ知らないことだらけだった。オープンまでに必要な作業も、クローズに必要な作業も。営業を短縮していることも、休業していることも、仕上げのコツも。

 

 


 

朝が来る (文春文庫)

どれだけ注意を払っていても、毎朝のように、どこかには届けることを忘れた家や届ける新聞の種類を間違えた家が出る。その度にクレームが入り、店長夫婦から渋い顔をして叱られる。仕事を教えてもらえない、ということはなかったが、一度教えられたことがわからなくなって、困ると、ひかりが質問するより早く、「どうするんだっけ?」と意地悪く追い立てるような口調でつっけんどんに聞かれた。

 


 

高校を辞め、家を出て、住み込みのアルバイト(新聞配達)を始めたひかり。そのひかりの目にうつる景色。この文章は、「新しい仕事をはじめるとき」に“どこにでも”“誰にでも”少しはあるものだと思う。どれほど丁寧で、どれほど新人に易しい職場でも。どこかで少しは向けられる棘。

 

楽しく迎えたい気持ちと、少し意地悪になる気持ち。私にだってある。「なんか嫌だなあ」って思ってたくせに、同じようなことをしそうになる。ハッとしてやめる。「はじめて」は誰だって緊張で大変なんだから、って。最初をよくしてあげよう、よくしてもらったように、って。

 

仕事を教えてもらえない、ということはなかったが、

 

これは正直「はじめて」につきものだと思う。

自分が一から覚えたことを、人に一から教えるのに手厳しい。『自分から聞け』『やりながら覚えろ』意識が強い。前向きな姿勢が評価される世の中だから。私は別にいいけれど、アルバイトながら思う。“いい人”を招き入れたいのなら、招き入れるほうのスタンスも“いい”にすること必要があると思いますよって。

 

意地悪く追い立てるような口調でつっけんどんに聞かれた。

 

そんなことはなかった。今の職場でも、今での職場でも。そんなことは一度もなかったけれど、少しの「意地悪」を感じることはやっぱりある。どこにだってどうしてもある。

「意地悪」というのは少し違うかもしれない。「意地悪」というより「下手」だった。「下手」すぎて、「意地悪」に思えた。今の職場に入った時。

 

仕方ないと思ってた。

 

だってみんな二十歳になったばかりのこだったから。「はじめたて」という経験が自分自身にも少ないはずだし、本人たちが受ける「はじめたて」は、私より全然易しかったはずだから。それでも、その不満を十分に補ってくれる環境(人間関係)だったので、今もこうして続けられたわけなのだけど、本当に、はじめての人に対して「知らない」という前提が薄い職場だ。本当に「はじめて」に下手な人たちだ。私の後に、三人新しく人が入ってきたけれど、それをみていても(う〜〜ん)と思ったし、新店舗の研修もうちでやっているけれど、それも(う〜〜ん)と思ってる(笑)どうしてもの時だけ、こっそりと「こうしたらいいって教えてもらいましたよ」と囁くようにしてる。

 

慣れた人
慣れようとしている人
慣れてない人

 

「早く覚えてもらう」という厳しさは、仕事だから必要なことだと思う。仕事だから仕方ないとも思えるものだ。それでも、誰だって「はじめて」があったはずじゃないかと思う気持ちもいつもある。「はじめて」の時に、自分が苦く思ったことは、次のひとへ続かないようにしてあげることくらいしてもいいはずなのでは、と、甘くて弱い私はどうしても思う。

 

そういえば、「なっちゃんのように綺麗にパスタを盛り付けるにはどうしたらいいの?」って聞かれことがあった。はじめてフリーターとして働き始めたカフェで。なぜか伝えなかった。やってみせることはできたけど、口頭では伝えられなかった。伝えなかったっていう方が正しいかもしれない。せっかく覚えたことを、せっかく「なっちゃんのパスタ綺麗」って言われることを、「お皿に移すときに、お箸でくるくるっと巻きながらするんです」ってなぜか教えたくなかった。私は目で覚えた。どこか「棘」があった。あの時のことを今も言われる(笑)「なっちゃんはキッチンが上手だったんだけど、パスタの盛り方をどうしても教えてくれなかった!」と(笑)「いや、ちゃんと教えてましたよ!!」っていうけれど、いや、教えてなかったかもと最近思ってる。

 

ちょうど今私は、あの頃の先輩と同じ年になった。 

 

確かに教えてくれない。大事なことほど。教えてほしいことほど。

 

あの頃の私と同じくらいの年の子達は(笑)!!

 

だから、「はじめて」に易しい人に出会うと、そのもどかしさを知っている人なのかなあと思う。「はじめたて」という立ち位置を『年齢』や『他での経歴』に限らず、迎え入れてくれる人は「知っている」人。「はじめて」じゃないまますすめられる「はじめて」を。どこかで「経験した」ことがある「はじめて」の雑さ、ゆるさを。

 

「若いから」っていうのはやっぱり理由にあるような気がする。

 

私もそうだったから。

 

これから気づいていくのかもしれない。

そう思いながら眺めてる。一生懸命教えている姿を眺めてる。

 

今度謝ろう。

「どうしてもパスタの盛り方教えてくれなかったんだよ!」 って8年も言い続けてる先輩に。 

 

 

泣きたくなったとき

 

「何でだろう」

そう考えることがたまにある。なんでこんな頑張ってなくちゃいけないんだろう。なんでこんな頑張ってる自分を頑張らなくちゃいけないんだろう。なんのために、誰のために、こんなに頑張ってるんだろう。今のこれに何の意味があるんだろう。そう立ち止まってしまうこと。私にはある。しかも“よく”ある。だから、「わかる」と思った。平野さんの言葉、『大人は泣かないと思っていた』数ページに。

 

 


   

大人は泣かないと思っていた

「そっかそうだね」

引き返せないよね、と頷きながら、なんでなんだろう、と思った。

私たちはどうしてこんなにも「結婚しなきゃいけない」と思っているんだろう。

  


  

スピード婚する同僚(原田亜衣)のドレス選びに付き合うことになった平野さん。そこで亜衣が突然泣き出す。理由は「不安なんだ」と。長く付き合ってる彼女がいることを知ってて、妊娠しにくいからだからと嘘をついて、こうなったから、と。でも引き返せないんだ、と。そう話す亜衣に「そっかそうだね(引き返せないよね)」と返す。そして思う。どうしてこんなにも、私たちは「結婚しなきゃいけない」と思っているのだろう。。。

 

私も思う。「どうして」って。

「どうしてこんなに“しなきゃいけない”と思わなくちゃいけないことが多いのだろう」って。

 

結婚は一番わかりやすい“それ”になる。周りがだんだんと結婚しはじめて、だんだんと「結婚は?」と聞かれる年になってきた。ほぼ初対面のような人にも「結婚は?」と聞かれる。何の意味もないただの確認であっても、ただ話の話題としてであっても「どうして」と思う。その質問に答えた後からジワジワと。1日が終わった頃からジワジワと。「どうして」と思い始めて考える。どうしてその質問が必要だったの???「したくない」といえば一歩引かれて、「してない」といえば、「そうか、そろそろ周りはしていくやろ」と言われる。そうですけど、何か?無難な会話に胸のあたりがフツフツしてくる。

 

なんでなんだろうと思う。

こんな自由な時代に、こんな自由が広がってきた時代に、こんな自由になっていく時代に、そういう一言のために、焦らされてる人がたくさんいる。

 

なぜ!!

 

大声で叫ぶ。心の中で(笑)

 

「結婚したい」「結婚したい」そう言ってる友達の言葉に相槌を打ちながら、「やばい」「やばい」そう言ってる友達に相槌を打ちながら、「別に結婚だけじゃないけど」と言いながら少し焦ってる友達に相槌を打ちながら、「本当にそうなの?」と思ってる。ねえ、それ思わされてない?世界に、世間に、常識に、周りに、一言に、親の目に。

 

結婚だけじゃなく山ほどある。ちゃんとしてなくちゃいけないこと。

 

自立してなくちゃいけない、成功してなくちゃいけない、自分らしくいなくちゃいけない。幸せじゃなければいけない。頑張ってなくちゃいけない。いいものを持ってなくちゃいけない。センスよくなくちゃいけない、信頼してる人がいなくちゃいけない、人生は楽しくなければいけない、毎日が充実してないといけない、そうじゃないと幸せじゃない。

 

幸せじゃないのはいけない。幸せじゃないと。

 

「どうして」

 

はっきり言われたわけでもない、はっきりそう言われてるわけでもないけど。どうしてか焦っている。どうしてか焦らされている。どこかで渡されてしまった「常識」に。どこかで渡されている「常識」に。勝手に受け取ってしまった、信じてしまった「常識」に。急かされている。追いかけられている。 そう感じることがある。

 

「どうして」と思う。だけど、それを「どうにかできる」とは思わないし思えない。私にはきっと難しい。

できることがあるとすれば、入っている力に気づくこと。入りすぎた力に気づいて力を抜くこと。脱力すること。力の抜き方を知っておけば、誰かの無意識に捕らえられても、いつかの呪縛に苦しめられても、ぬけだすことができる。

 

「どうしてだろう」と思うことから、一つ一つぬけ出すこと。

 

それをもう私からは渡さないこと。

 

何かできるとしたらそれくらいだ。

 

私と私以外と。私以外と私は。別ものだから。

 

そう思って。

 

そうすることだけ。

 


 

大人は泣かないと思っていた』 

 

私も大人は泣かないと思ってたな。

いや、ちがう。私は、大人になったら泣かなくなると思ってた。だけど、大人になっても泣きたくなることは山ほどある。てゆうか、めっちゃ泣いてる。むしろ大人になってからのほうが本当に泣いている気もしてる。

ああ、大人は泣かないと思ってたのに。

 

 

パスワードなんて必要ない

初めて携帯を持たせてもらったのは、小学四年生の頃だった。理由は入院生活をしていたため。看護婦さんやお医者さんに何か言えないことがあったとき、どうしても寂しくなってしまったとき、そんな「もしも」のために持たされたのが最初だった。

 

なぜこんな話を始めたのかといえば、最近読んだ『朝が来る』という本にあった文章に思い出したことがあったから。そういえば私も言われたことがあったなあと思い出した。

  


 

朝が来る (文春文庫)

その頃もう巧と付き合い始めていたひかりは、姉に倣ってパスワードを設定した。するとある日、涼しい顔をした父から、「お姉ちゃんはパスワード設定してるみたいだけど、お前もしているのか?」と精一杯平穏を装った声で聞かれ、「してるよ」と答えると「なんで」と聞かれた。「なんで。別にそんなことしなくても、誰もみないじゃないか」という説得は、あまりにも矛盾していてぞっとした。これで中学生の娘に本当に通用すると思っているのだろうか。

 

ひかりという14歳の女の子がお姉ちゃんにからこう言われる。「あの人たち、私の誕生日とかでパスワード試したみたい。3回間違えてしばらく開かなくなってた」と。そして、ひかりもパスワードをつけるようになった。父親は言う。「お姉ちゃんはパスワード設定してるみたいだけど、お前もしてるのか?」

 


 

このページを読んだとき、身に覚えのある景色だなと思った。

 

知らない間にパスワードを試されて携帯が開かなくなってたなんてことはなかったけれど、同じようなことを言われたことがあった。小学生の頃にはかけてなかったパスワードを、中学生に上がってかけるようになったとき、「なんで」と言われた。「別に」と答えたら「誰も見いひんねんからいいやん」と言われたけれど、誰も見ないなら別につけてたっていいでしょ、という言い分で外さなかった。

 

正直、外してたら見られてたと思う。

 

だって見てたもん。留守中に勝手に部屋に入ったり、知らない間にパソコンの中見てたりってしてたもん。一時期日記帳も見られていた気がしてわざわざ隠してたもん。別にいいけど!!何を書いてた頃を見られてたのだろう〜って考えるときだけちょっとこわい(笑)

  

涼しい顔をした父から、「お姉ちゃんはパスワード設定してるみたいだけど、お前もしているのか?」と精一杯平穏を装った声で聞かれ、「してるよ」と答えると「なんで」と聞かれた。「なんで。別にそんなことしなくても、誰もみないじゃないか」という説得は、あまりにも矛盾していてぞっとした。

 

本当にその通り。

涼しい顔をして、なんてことないような声で、矛盾したこと言う。当然のように。

 

ひかりと同じくらいの年の頃、みてた大人は大半がそうだったような気もする。そう聞こえた。そう見えてた。

 

今になってみれば、そうなる大人側の気持ちもわからないではない。というか、分かる気がする。一番危うい時期に「自由」過ぎるのは危険だと思っちゃうから。行動も精神もあやうくうつって見えるから。「こわさ」を知らない恐さ。「こわさ」を分かってない「恐さ」。軽い気持ちでSNSに載せてニュースになってる人を目にするたび思う。

 

買い与えたその中で、手に隠してるその中で、何をしてるのか。

 

そりゃ、心配にもなるだろうなと。

 

それでも嫌なものは嫌で。不信に思うのは思う。

 

「誰も見ないんだからいいじゃない」だなんて、やっぱりどう考えても矛盾している。私も思う。

 

ちなみに、携帯のパスワード問題って、親から離れてもある。例えば、付き合ってる人との間で。夫婦間で。友達間でもあるかな??「やましいことがないならパスは教えられるでしょ」問題。やましいことがなくたって、全部を知っていなくてもいいでしょ。と、私は思うけれど、これに関して答えを出すのは無理だと分かってる。「ならいいじゃん」と言う人の見解も、「でも見せたくない」と言う人の見解も、終わりがなくて、正しいから。どうでもよくて、どうでもよくないから。結局どれも正しくはないから。

 

「『携帯をみせて』と相手に言わせてしまわないようにすること」

 

それ一択。お互いに。それ一択。

 

『人の携帯なんて見るもんでも見せるもんでもない』

 

出来ればずっと

 

心の底からそう信じてる自分のままでいたい。

 

 

面白くはない100万円の使い道

今週のお題「100万円あったら」

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貯める!かもしれない。今考える「100万円あったら」だと。「貯める」が答えかも。移住計画に向けての貯金。それか、「増やす」ための自己投資に使うかもしれない。貯金半分、先行投資半分、みたいな。

 

「国内でもいいから思い切って、でっかく、旅行に行ってみる」も捨てがたい、「好きなメーカーの化粧品をジャバジャバ使って、美容院にいって、全身脱毛にも行って、ホワイトニングもはじめて、気になった本を好きなように買って、あれやこれ〜〜!」って細かく満たすのも捨てがたい。

 

でも!!

 

今!!

 

今!!の私が、「今週のお題」を目にして思い浮かべたことは、ちょっとリアルなほう。 移住計画のために「貯金」、もしくは「(お金)をつくるための投資」かなあ、、、だった。自然と。スーッと。ふつうに。思ったのは、それ。まったく面白くないけれど、そうすると思う。

 

ちなみに、昔から「いつか海の近くで暮らしたい」って、漠然とあった。海の近くに旅行しにいくことがあれば「ああ、いいなあ」って毎回思ってきた。夏の海でも冬の海でも秋の海でも春の海でも。訪れる場所訪れる場所で「ああ、ここもいいなあ」って。それが2年前、確信に変わった。ここに住むわ!私!!、夏の旅行先でそう宣言した。いつもなら漠然と「ここもいいなあ」と考えるくらいだったのに、その時は『確信』だった。

 

 だからもし、本当に、「ここに100万があります」の100万円があったら、そのために使いたい。100万持って勢いで行っちゃえたらいいのだけど、その可能性は低いかな。あと2年はここにいるって決めてるし。

 

移り住んだら朝日とともに起きて健康的に生きたいなって思ってる。気持ちいい朝と昼がある場所だから。たまにのルーティンを「常」にしたい。日の出に目覚ましをセットして、起きて、軽く散歩して、書いて、ご飯を食べて、コーヒー飲んで、昼を過ごす。そんな生活をたまにじゃなくて「常」にしたい。ただの『理想』だけど。チャレンジしてみたい。合わなければやめればいいし。生活も移住も。

 

とにかく、今考える「100万円あったら」は、「貯金」、もしくは、「増やすために使う(投資する)」かな!!20代のうちにやっておきたい2年計画のために。

  

そうしたいな。

 

 

さやちゃんと英國屋

 

 

ぼっちーズ (メディアワークス文庫)

「実は僕、友達会っていうのを運営してるんだ。きみもどうかな、と思って」

 

森川がぎこちなさのつきまとう微笑みと共に、右手を握手でも求めるように差し伸べてくる。俺はトモダチカイを正しく変換するのに数秒、その会の胡散臭さに数秒、森川という男の真意を掴みきれず数秒、ツイけいで十秒近く硬直してしまう。森川はその瞬間、ジッと俺を待っていた。

 

「・・・・宗教の方ですか?」

 


 

大学生活を「ぼっち」で過ごす人たちで駆けめぐらされる物語。

「ぼっち」ってなんなのか。なぜ「ぼっち」なのか。

立ち止まって考えさせる世界だったなと思う。

 

そんな本ぼっちーズの中にあった文章。

 

「・・・宗教の方ですか?」

 

宗教とはちがう。ちがうけれど、ネットワークビジネスの勧誘にあったことがある。

 

ある飲み会で出会ったさやちゃんという女の子がきっかけだった。思い返してみれば「何かおかしいな」と思うことがいくつもあった。例えば、これまでは提案してくれたいくつかの流行りのカフェの中から選んで行くというのが“普段の流れ”だったのに、その日は「〇〇ビルの英國屋に3時ってどう?」と決められて連絡してきたこと。場所もお店もこれまで入ったカフェを思い浮かべて「なぜ??」と思った記憶がある。あとは、単純にいつもどこかソワソワしていたこと。特に三度目にあったその日は、いつも以上にソワソワしていた。なぜかいつも緊張しているようだった。私もつられてドキドキしちゃうくらい。

 

出会って三度目のその日、英國屋に入って30分ほど経ったくらい。

いつも以上にソワソワしていたさやちゃんはなっちゃんのこと信頼してるし言いたいんやけど、、、、」と、急にトークの温度を変えはじめた。

  

次に口にしたのが「一緒に仕事しない?」

 

え!!?? 

 

びっくりした。急すぎて。

 

一緒に仕事って何!!?

 

ただそれだけだった。

 

なんとなく楽しいことをしてるって話は聞いていたけれども。事務の仕事の他に新しいことをしてるって話はなんとなく聞いてはいたけれども。その仲間とフットサルしてる話や、その仲間との飲み会がどうだとかも、そういえば聞かされていたけれども!!

 

深くは聞いてなかった。そこまで興味もなかったし。

 

考えることもなく断るつもりだった。

音楽でやっていくことに必死だったし、「そんな暇はないです」って。 

 

なのに!!

 

「いや〜〜」

 

断ろうと口を開いた瞬間!!

 

言葉は遮られ、

 

「でな、今、先輩がたまたま近くにいるらしいし呼んでいい??」

  

ここからはもう一瞬。

 

「いや、ちょっと急すぎる、困る!!」

 

そう伝えたときには、もう噂の先輩がお店の入り口に到着してた。

 

・・・・・

 

(笑)

 

仕込まれてた!!仕込まれてしかなかった!!!

 もっと自然にやってくれればよかったのに!!!

 

これまでのぎこちなさの正体が判明して、ただイライラした。心のシャッターは完全に閉店。三度も会ったことが馬鹿みたいに思えてきて、自分に呆れて笑えた(笑)

結局、名前だけ紹介されすぐに仕事の話に。ビジネスのシステム、商品のこだわり、参加するメリット。目も合わないのに淡々とすすむ話を右から左へ流しながら10回は想像した。机をドン!と叩いて出て行く自分を。

 

今だったら「ちょっと待ってください」と途中で切り上げて帰ることもできる。今だったらそもそもそうなる前にそうなることを避けられる。けれど、当時の私はまだ二十歳で、そんな世界があることも知らなかったし、ただ怖くて言えなかった(咄嗟にボイスレコーダーで録音だけはしたけど)

 

終いには「これ使ってみて、使ったらさやちゃんに返して」とボディークリームを渡される始末。

 

「いや、なんで返さなあかんねん!」

 

きっぱりお断り。はっきりと。もう“一生”会うつもりはないので。あなたたちのすすめるそれを使ってみる気は一生ないので!!!。さやちゃんの先輩は、「いや、いいから一回使ってみたら?」と“目も合わせず”しつこかったけれど、それでもそこはしっかりお断りして帰った。

   

もう会うつもりもない。

 

それだけ伝えて解散。 帰りの電車、そっとラインを消した。 

さやちゃんもまだ新人さんだったのだろうなと思う。これが震えていたし。でももし、今、出会っていたら「こわいならやめておきなさい」そう言ってしまいそう。ああいうことは、不安なままやることじゃないと私は思うよ。

私の方がこわかったもの。会って三度目で、信頼も何もない中で、ただ店に入れられて、目もあわない人の話を聞かされるだけ、1時間。咄嗟にボイスメモで録音したくらい警戒してたもの。

 

そこからはよく分かるようになった。大人数募集されるアルバイトで必ずと言っていいほど確認される「たまに勧誘目的で働かれる方がいて、クレームをもらうことがあるので避けて欲しいのですが、そちらは大丈夫ですか?」のその意味。友達が「この間、道尋ねられたと思ったら勧誘やってん」と話してくるその意味。一人カフェしているとよく見かける「偶然装った風の会」のその意味。

 

そんな景色を見かけるたびに私は思う。

 

もう少し丁寧な伝え方を考えてはくれないか。一度立ち止まって、はじめる前の自分を思い出してみてくれないか。それを踏まえて広げることを考えてくれないか。こわがらせない方法を、もう少し上手な広げ方を。もし伝わり方が違ったらこわいものと思わなかったかもしれない人がここにいるんです!!って。 

 

いいものを人の紹介で買う。いいものを知り合いに買ってもらう。

 

それ自体は自然なことなのに。

 

もったいないなと。

 

私には違っただけで、「いい・わるい」は、人それぞれなはずだから。

 

伝えていくことにもう少し丁寧になってほしかったなって思う。あの日のことを思い出すと特に。似たような場面に出くわすと特に。

 

人が"いい”と信じるものには必ず意味があるし、誰かにとって“必要”であるから存在しているのだと思うから。

 

余計に思う。

 

もう少し余裕が欲しかったです。選択する余裕が。

 

先輩に会うことも。

仕事をしたいんだって言葉に向き合うことも。

  

もう少しゆっくりであれば、「苦手」にはならなかったかも。もしかしたら、ここまでイメージを傷つけずに済んだかも。

 

そう思う。

 

それが、誰にとっても、どう考えても、いいもの(商品)であっても。 

 

選択には人それぞれ「自由」がある。

 

そう考える時、思い出す出来事。

 

「宗教ですか?」ぼっちーズ (メディアワークス文庫)

 

この文章をみて思い出した出来事。

 

さやちゃんとさやちゃんの先輩と英國屋でつくられた時間のこと。

 

小説『ぼっちーズ』を読んで。

 

思い出した。 

 

 

 

きょうだいと、「大好き!五つ子」と。

今週のお題「そうめん」

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そうめんといえば、夏休みが近づいてきた合図にあるようなものだった。夏休みが近づいて授業が短縮になるとお昼ご飯に家で食べたもの。今でも、そうめんを食べるときには必ず思い出す。暑い食卓と、汗ばんだ感覚と、髪を汗でしめらせた小さい妹と弟の姿。前に座る二人の姿と横目に見るテレビ「昼ドラ『大好き!五つ子』」。

(小学生だった頃、昼ドラで「大好き!五つ子」が放送されてました。私があの30分のドラマが本当に好きで。たまに、「もう一度みたいなあ」って思い出します。探してみればどこかでみれるのかな?笑) 

 

大好きだった。

暑い夏の日に食べる「そうめん」が。いつもなら学校にいるはずの時間に、学校じゃなくて家で食べてるお昼ごはん「そうめん」が。

 

大好きだったから思い出すのだと思う。今でも毎回、必ず、思い出す。そうめんとセットになってる小学生の頃の記憶(景色)。

おじいちゃんが山で取ってきてくれた竹で流しそうめんをしたこともあるし、トイザラスで買ってもらった流しそうめん機で流しそうめんをしたこともある。どちらかといえば、そちらの方が記憶として残っていそうなのに、思い出すのは夏休み前に“ふつう”に食べてた「そうめん」のこと。学校から帰って、公園に遊びに行く前に、汗をかきながらきょうだいと食べた「そうめん」の味。全てにウキウキしながら食べたそうめんの味。

学校が早く終わったことにも。給食じゃないことにも。これから夕方までいっぱい遊べることにも。ウキウキした。大人みたいに、昼からテレビ(しかもドラマ)を見れることにも。ウキウキだった。

 

だから私にとって、「そうめん」は、そんな思い出と食べるもので、そんな思い出を思い出す食べ物。懐かしくて、おかしくて、面白い食べ物。

 

食べ方は変わってないと思う。濃いめのめんつゆで食べる。それが好き。お腹いっぱいの手前で生姜を入れる。薬味は生姜だけ。それが好き。昔も今もそうして食べる「そうめん」が好き。

 

ちなみに、昼の残りで夜に出される「にゅうめん」も好きだったな。

 

 

ダサいけど可愛い。

 

 

蛇行する月 (双葉文庫)

これが順子の言う「しあわせ」と思ったら、全身から力が抜けた。自分よりずっと恵まれた暮らしをしていたら、というおそれは消えた。順子の「しあわせ」は自分の求めるものとはまったく違うかたちをしていた。

 


 

この文章を読むとき、思い浮かべる人がいる。

音楽を始めて出会って、仲間ではないライバル以上で、周りがいう「仲がいい」とは何かちがったけれど確かに特別で、不思議な関係だった。彼女は私を「友達」ではないといい、「親友」と呼んだ。当たり前に在る者、不思議な関係。

 

引用したのは『蛇行する月 (双葉文庫)』という本から。

高校を卒業して「東京に逃げることにしたの」と駆け落ちをしていった順子。随分と年上の、奥さんがいる男と。きっと幸せに暮らしているのだろうと“警戒”しながら会いにいった清美は、自分のことはそっちのけで、貧乏で、一見幸せそうには見えない生活をしている順子と会う事になる。思っていたのと違う姿をしてる順子。それでも本人は、心から幸せそうに「しあわせ」と語っている。清美は思う。ああ、自分と順子の「しあわせ」の形は全くちがうものだったのだと。「しあわせ」のカタチは人それぞれちがうのだと。

 

いちいち順子を比べるのはもうやめたい。やめたいのに、やめられない。

 

清美は、久しぶりにあった順子と会話しながらいろんなことを比べている。暮らし以外にも。どちらがマシか、どちらが幸福か。高校の頃からそうだ。清美は順子と比べてばかりだった。

 


 

私にとって彼女は、「順子」のような存在だったなあと思う。そして私は清美だった。

気づいた時には、心の中で彼女と私を比べて自分を点数づけるようになってた。どちらが幸せで、どちらが努力していて、どちらが素敵か。私と彼女は同じじゃないってわかってたのに。彼女と私は同じじゃなくてもいいってわかっていたのに。

 

自己肯定感が高くて誰からも一目置かれるような彼女を横にして釣り合うことに必死だった。見た目、技術、センス、暮らし、生き方、価値観。センスがいい彼女と「同じ感覚」でなければいけないような気がしてた。

 

気づけばこうなってた私。

最初はただ、個人としてみて、高め合って、気の合う友達だったのに。彼女が上手くいっている姿に焦って、上手くいかない姿に安心して。 平等に釣り合うために頑張ったふりをして、落ち込んだふりをして。

  

比べるのはもうやめたい。

やめたいのにやめられない。

 

そう気づいて「距離を取る」ことを選んだ。

 

私“だけ”が比べて苦しんでいる。

それがまた悔しくて。

  

「距離を取る」を選んだ。

一緒にいることが苦しいのなら、と。

「私」が「私」で、在るために、と。

 

今どうしてるかは知らない。1年前、彼女は音楽を続けるか続けないか、結婚するかしないかを悩んでる途中だったし、私は全てを捨てるか、捨てないかを悩んでる途中だった。私は「何もなくなるまで」を選んだので、断捨離をして、SNSをゼロにして、会わない選択を100%にして、連絡先も予定も最低限にした。その結果、ブログのトップに書いた通り「なにもない人」になった。彼女はどの選択を取ったのかわからないし知らないけど、うまく元気に過ごしてるはずだって思う。賢い人だから。たまたま今月誕生日。おめでとう。

 


 

綺麗な感情ではないのだろうなと思う。

引用した文章に「共感」してしまえることも。勝手に比べてごちゃごちゃ思うことも。比べて得られる満足なんて、何にも意味がないことはわかってるつもりだから。どちらかといえば醜い感情なのかもしれない。

 

いちいち順子を比べるのはもうやめたい。やめたいのに、やめられない。

 

これが順子の言う「しあわせ」と思ったら、全身から力が抜けた。自分よりずっと恵まれた暮らしをしていたら、というおそれは消えた。

 

同じようにして私は肩を何度も下ろしてきた。

こんな感情、本当は隠しておくべき感情。見せてはいけない感情。書く必要も、書いていいこともない感情。

 

ダサくて恥ずかしいこの感情。

かわいそうで恥ずかしいあの頃の自信のない私。弱み。

 

だけど、あれは嘘じゃなかった。本物で私のものだった。

 

“そういう人”もいる。

 

どうしても比べてしまう人

どうしても比べてしまう自分に疲れている人

 

それでもいいのだと思う。

 

「しあわせ」は人それぞれにあるんだから。

 

『』を読んで、私はそう思った。

 

本を読むってそういう機会がよくよくある。

 

だから好き。だから本が好き。

 

自分を、自分みたいな人を見つけられることがあるから。そうしたら、「それでいいんだよ」って「それでよかったんだよ」って、過去の自分を許してあげることができるから。生きてる世界だけの視野から抜け出して、大きな世界の目で、慰めて、肯定して、応援していくことできるから。

 

彼女の隣にいた必死だった私もよかったのだと思う。

 

ダサいけど可愛いし。

ダサいけど可愛いし。