書いて、書いて、眠りたい。

〜紡がれたものから思ったこと考えたこと〜

行李いっぱい書き溜めてスタートする

 

江國香織さんの書く文章が好きだ。

最近読んだのは『物語のなかとそと (朝日文庫)』という本で、この本はまた私の中の「好き」という感情が溢れ出されていくような本だったなと思う。これを読んだことで伝えたくなったことは、「中学生か高校生の自分に読ませてあげたかったな」ということ。周りと自分と、自分と周りと、そういう大きなモヤに悩んでいた心に読ませてあげられたらよかったのになあ、、、と思うような本だった。自分の持つ強い個性に悩まされているような心にも、自分の個性を認めてあげられなくて悩むような心にも、夢や目標のなさに不安になるような心にも、「大丈夫だよ」と言ってくれる生き方の目。社会と自分と、世界と自分と、「こうやって『目』を持っていればきっと大丈夫だからね」と言いかけてくださってるような言葉の本だった。

 

たくさんメモを取ったし、たくさん線を引いた。付箋もたくさん貼った。

 

その中でも、「書く」ということに対して印象を受けたページがあった。そこにはこう書かれている。

 

 

物語のなかとそと (朝日文庫)

 

寂聴さんに、「書くって、片手間にできることではないのよ」と言われた。「行李いっぱい書き溜めてスタートしなさい」とも。

 

 

これは、「書く」ことに対して緩みを持ち始めていた江國さんがある席でご一緒した寂聴さんに言われた言葉らしいかった。そこから「書く」ことに覚悟を持ったと。

 

すぐに付箋を貼った。

 

すごく素敵な言葉だなあと思った。

 

「書くって、片手間にできることではないのよ」

 

すごくパワーを持った言葉だなあと思う。

 

なぜなら、テレビでみたことがあったから。寂聴さんが苦しみながら執筆されている姿を。いつだったか見たことがあった。体調が悪くても、イライラする日でも、人に当たってしまうような自分になっても、書きたいから、書くことが好きだから、書きたかった自分がいたから、筆をとって書く。そんな方が吐いた言葉。そんな方から生まれた言葉。「なんてパワーストーンのような言葉なんだろう」と思った。

 

そして、その後。その後に続けられる、

 

行李いっぱい書き溜めてスタートしなさい」

 

この言葉は印象が強く残った。

そして、少しだけ書くことが楽しくなった。

 

書けない、、、

 

書けない、、、

 

書けない!!!!

 

ではなく、書くようになったから。それでも書く。とにかく書く。書いてみる。めちゃくちゃでもいいから、とりあえず書く。使えなくても、読めなくても、意味がわからないような文章でもいい。とりあえず、大きく、ゆっくり、やんわり、大きく。ふんわり大きく、ざっくばらんに、大雑把に。

 

とにかく書く。とりあえず書く。

 

そうして直す。そうしてから直す。

 

直して、整えて、置き換えて、書き換えて、濁して、光らせて。

 

そうやって書く。

 

そう書くことを意識するようになって、「楽しい」が増えた。それでもまだまだ難しいでいっぱいだけれど、書くことに、書いていることに、「楽しい」という感覚が確実に増えた。

   

もしかしたらこの本の言葉は、本を書くような時に大事にするべきことで、ブログを書いている私には関係ないような言葉だったのかもしれない。けれど、そんな私にも大きな言葉となった。たかがブログ。されどブログ。毎日書いている大事なブログ。

 

 

「書くって、片手間にできることではないのよ」

 

「行李いっぱい書き溜めてスタートしなさい」

 

 

この言葉はとても温かった。 

   

それでもやっぱり難しいし、それすらも難しいけれど、「楽しい」を増やしてくれた言葉。作家さんの目、作家さんの熱量、作家さんの「書く」。

 

 書くプロへ向けられた「書く」ということ。

   

ブログを書いているすべての方に触れてみてほしい

 

そんなページ、そんな言葉、そんな本

 

 

📖『物語のなかとそと』 

物語のなかとそと (朝日文庫)

物語のなかとそと (朝日文庫)

  • 作者:江國 香織
  • 発売日: 2021/03/05
  • メディア: 文庫
 

 

 

キューピーと虎

今週のお題「間取り」

 

f:id:im72nattsu:20210416220605j:image

もしかしたら「間取り」というのには“ちがう”かもしれない。出されたお題が「間取り」なのに、いきなり“ちがう”だなんて変な話だけど、「間取り」っぽい話を書きたい。我が家の不思議。10歳に引っ越してきてからずっと住んでいる我が家(実家)の話。

 

16年間暮らしてきたこの家は4階建てになっている。一階にはお客さんから必ず喜ばれる螺旋階段があり、玄関は当時まだ(一戸建てには)珍しかったカードキーでの鍵。学生時代は、「家に行ってみたい」とよく言われた。珍しさといえば、それくらいなのに。

 

ただ、建物のつくりに「名残を感じる」というのは面白いところだと思う。

 

わが家が建つ前にあったのがお店だった。その名残が少しだけある。個人経営の飲食店。その名残。例えば、食品を運ぶようにあったエレベーターの場所がクローゼットになっている。立て替える前、その姿を見たのだから間違いない。そういう関係であるクローゼットがいくつかあるし、4階にキューピーちゃんがいる。もともとお店の玄関に置かれていたものらしい。腰くらいある大きいキューピーちゃんが置いて行かれてしまった。あのキューピーマヨネーズのキューピーちゃんだ。引っ越してきてから、ずっとそのまま4階に置かれている。

 

正直、少し怖くて、「早く捨ててくれ」と何度か言ってみているのだけど、こう言われる。

 

「もしかしたら、高く売れる日が来るかもしれない」

 

そう言って、中々捨ててくれない。捨てにくいだとか、捨てるのは怖いだとか、そんな理由ではなく、いつか高く売れるかもしれないという理由に、なんとも返せなくなる。

 

「まあ、、、そう思うのならそれでいいか、、、」とそのままになっている。

 

それと同じような理由で、仕事先で引き取ってきた等身大の虎のおきものもある。少し離れた場所にある倉庫に置かれている。不思議なことに私の父にはそういうところがある。その影響から、我が家には不思議がいくつか隠されている。

 

いまだに4階で1人ポーズを決めてくれているキューピーと、今もまだ倉庫で番犬してくれている虎。

 

きっとふつうではないはずだし、なにかが可笑しい。だけど仕方ない。まだしばらくふたつとも我が家の一員のままだろうから。我が家の不思議と思っておくしかない。

 

我が家の不思議。

 

我が家の「間取り」の不思議。

 

 

もしかしたら「間取り」というには“ちがった”かもしれない。

 

そんな話。

 

「不健康よ」と同じ匂いのする「やばい」

 
 
左岸

兄の死後、茉莉はしばらく兄の部屋で寝ていたが、それはやがて両親に禁止された。「不健康よ」喜代は言ったが、なぜ健康がいいのか、茉莉には理解できなかった。

 

主人公“茉莉”の母、喜代が言う

 

「不健康よ」 

 

似た匂いのする言葉を私の母もよく吐いた。この言葉に似た温度の言葉を私はよく聞いた。つめたい温度の、「非常識だ」「おかしい」と引き離そうとしている力が込められた、「やばい」という言葉。

 

私は、超がつくブラコンで、超がつくシスコン。世界で何より二人が大事で大好き。

 

そんな私に母はよく「やばい」と言った。

 

19歳の弟にハグをする、手や腕をにぎにぎする、引っ付いて歩く。23歳の妹に、ハグをする、手をつなぐ、出かけたいときには連れていく。確かに“おかしい”かもしれない。けれど、可愛くて、可愛くて、大事すぎて仕方ないのだから、どうしようもない。

 

大丈夫。妹・弟離れできてないのは“お姉ちゃん”だけだから。

 

妹と弟は簡単に姉離れしているから。

 

何も心配はいらない。

 

「不健康よ」と同じ匂いや温度を持った「やばい」も意味はない。そんな言葉で、変わることはなかったし、これから「不健康」になる心配もない。こうした感情は、持ったにしか理解できにくいことだろうと思う。そう思うように、諦めることを覚えた。

 

私の妹、という感情。私の弟、という感情。どうしようもない感情。ただただ、妹と弟が好きなだけ。

 

茉莉が喜代の「何が健康で、何が不健康なのか」を理解できないように、私にも理解できにくい。茉莉が「なぜ健康がいいのか」と喜代を理解できなかったように、私も理解できなかった。その理解されなさ、と、理解できなさ、を、茉莉の言葉が肯定してくれたように思った。

 

茉莉は聡明なお兄ちゃんが好きだった。ラブじゃない。ラブじゃないけどライクともちがう。お兄ちゃんが好きだった。私には、それがよく理解できる。

 

きっと、「そうである人」にしか理解できないことなのだろう。兄弟がいるから理解できるものでもないし、仲がいいから理解できるものでもない。「理解できる人」と「そうである人」に理解できること。

 

だから母の「やばい」はどうでもよかった。

 

左岸』という本の1ページ、茉莉の言葉から、改めてそう思うことができた。そう思う自分を許すことができた。

 

本を読むということは時々そんな不思議と出会える。

 

だから私は本を読むし、だから私は本が好きでいる。

 

誰にもわからないことが、説明できないことが、文字になって“ある”こと。理解されないはずのことが、理解されてしまう瞬間がくる。肯定されてしまえることがある。そういうことが、本にはよくよくある。

 

茉莉の言葉(引用)は、そんな言葉だった。

 

私にも覚えのある言葉。

 

ぜひ、読んでもらいたい。皆さんはどう感じるのだろうか。

 

二人の作家さん、二つの本で一つの世界になるこの本たち。

f:id:im72nattsu:20210412154230j:image

 

茉莉の世界、茉莉のみる世界、茉莉がみる九。

九の世界、九のみる世界、九がみる茉莉。

 

ぜひ。 

 

本から思う「想像してなかった日々とマスク」

 

気がつけば、マスクでの生活は当たり前になった。

街の常識は「外出時には必ずマスクをすること」になったし、「そうじゃない人」にはとても厳しく変化してきた。これは“今”マナーである。誰か一人、たった一人なら、「大丈夫」とはいかないコロナウイルスと生きている時代。嫌だからとか、面倒だからとか、みんなしてなければ意味がないからとか、身近にいないから実感がないとか、そんな屁理屈を理屈っぽく言っている場合ではない事態。どの考えが正論か、正論はどこにあるか、そんなことを考える前に、できることはするべきだと理解し合えていたいし、協力していきたい。年代に関係なく、そうでありたい。それが、危険と隣り合わせで生活してくれている医療従事者の方々への感謝を忘れないためでもあると私は思う。誰かがやってないからとか、自分はやっているのにとか、そんなこと考えても、ほとんど意味はない。自分のできることをしておけたらいい。事情があって「マスク」できない人もいるかもしれない。人が、周りが、世界が、どうだからではなく、自分のできることをしておけたらいいのだと思う。人は人を変えることは難しい。だからこそ、自分ができることをしておけばいい

 

だけど、不便なマスク生活。慣れないマスク生活。街は「マスクを早く取って生活したい人」で溢れている。気持ちは分からなくもない。ただもう少し、もう少しだけ、頑張ろう。もう数年、頑張ってみよう。マスクで少しだけでもリスクを下げられるのなら、意味は十分あるのだから。みんな同じ時間を生きている。頑張ろう。もう少し。できる人ができることを。

 

そうやって、街を見て、世界を見て、言い聞かせている。人を見て、自分を見て、自分自身に「自分ができることを」、そう、言い聞かせている。

 

「マスク」といえば、最近は、コロナウイルス以前に出版された「本」から今の世界と今までの世界を実感することがある。

 

「こんな日々を想像してなかった」

 

そんな景色を本から感じる。

 

例えば、最近読んだ女王さまの夜食カフェ - マカン・マラン ふたたび

 

女王さまの夜食カフェ - マカン・マラン ふたたび

急行を待つ人の列に並びながら、真奈はジャケットのポケットから取り出したマスクで顔を覆う。見れば、老若男女にかかわらず、周囲のほとんどの人たちがマスクをつけている。

 

 

インフルエンザ対策で、電車の中はマスクをつけた人で溢れているという話だった。マスクを顔で覆っているほうが「不自然」だった頃の感覚。それでも健康のために、電車の中はマスクで顔を覆いかぶした人だらけな、その頃には少し不思議だった景色。なのに、今は当たり前の景色。

 

電車に乗る前につけていたマスク。

 

これまで「冬」につけるマスクの使い方は私もそうだった。人の多い場所でマスクを鞄から取り出す。だけど今は違う。マスクを長時間外したり、マスクを必要以上にずらしていたり、そうするほうが「不自然」に感じるようになった。この本が出版されたころ、今の世界を誰も想像していなかっただろうなと思う。誰も想像もできなかっただろうなと。そう思いながら、この文章を読む。そういう本に最近よく出会う。

 

そんな中で、思い出した。

  

ついこの間読んだ、マスク依存症の女の子のことが描かれた物語夜が明けたら、いちばんに君に会いにいくのことを。

 

夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく

夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく

  • 作者:汐見夏衛
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本
 

 

これまでなら『マスク依存症』は大きな問題だった。素顔を出せない。自分の奥底に自分を閉じ込めてしまう。SNSの時代に増えてしまったこの問題は、これまでならとても大きな問題だったはず。だからこそ、書かれた物語。

 

だけど、今はそうじゃない。マスクは常にすべきもの。

 

そして、思う。

 

私自身が『マスク依存症』に近づいていること。

 

きっと、多いだろうと思う。私だけじゃないはず。

 

水を飲むために少しずらすマスクの時間も恥ずかしく感じている自分がいること。そう感じている自分に気づいて不安に思うこと。街の人たちが「マスク外せるようになりたい」と言っているのに共感できない自分がいること。

 

私だけではないはず、と思う。

 

これまではなかった常識が、今常識になっている「マスク」

 

想像もしてなかった「今」だけど、これまでとガラリと変わった「今」だから、思うことや考えることがたくさんある。

 

心地よく思う人も、心地わるく思う人もいる。

 

不便だし、面倒だし、窮屈だけど、便利でもある「マスク」

 

みんなが心地よく過ごせるように、できる限りで、おもい合えたらいいな、と、2冊の本の「マスク」から思った。

 

今日もマスク、明日もマスク、しばらくマスクで、頑張ろう!

 

 

26ハラ

今週のお題「下書き供養」

 

書くか迷っている。でも書きたくてしかない。

 

 

そうやって始まる記事を掘り起こしてきた。一番下でそのままにされていた記事。なぜなら、今週のお題が「下書き供養」というテーマだったから。ゴミ箱に入れてしまおうかと何度も悩んだけど、「いつか」と思って残っていたこの記事は、これを逃したら本当にゴミ箱行きかもしれないので、勢いに任せて書いてしまうことにする。

 

 

書くか迷っている。でも書きたくてしかない。

 

最近、「26歳」だということを16時から18時半までの2時間半言い続けられるという経験をした。目が合えば聞かされた。少なくても20回以上は言われていたと思う。直接は関係ない本社勤務の女性からなので、どうってことない。ここでは、「橋本さん」とする。

 

橋本さんがいう「26歳かあ」は嫌味ではないことは分かっている。20歳と21歳の子達ばかりのうちの店舗で「慣れる前から安心感」があると言いたいのだと思う。接客にも、お店の一員として馴染むことにも、社員との会話にも。言っていること、言いたいことはわかる。感じのいいおばちゃんなので、初めの間は対して気にならなかった。

 

気にならなかったはずなのだけど、店舗に来られて2時間をすぎたあたりから少しフツフツし始めた。勤務時間もあと30分、この時間が一番忙しい。片付けでバタバタするタイミング。だったからなのかもしれない。

 

「26歳かあ」

「26歳やし落ち着いてて安心できるわ」

「26歳くらいやと雇っても結婚で辞めていく人多いねん」

 

少しだけ違和感を覚えた。「はい」「ありがとうございます」「そうですよね」簡単に相槌が打てる会話で、有り難くもあったけど、、、

 

 

「それにしても言いすぎじゃね!!!!?」

 

 

そう思った。

片付けも終わり、「お先に失礼します!」と扉を閉めて駅に向かって足を進めながらも、また思った。1日を振り返って思い出す「26歳」という橋本さんの言葉。やっぱり思う。

 

「26、26って、言いすぎじゃね!??笑」

 

確かに、私の働く店はみんなすご〜く若い。みんな同年代で、しかも少人数、オープニングからのメンバーなので、とても仲がいい。入ってから少し驚いたけれど、とても優しくてかわいい人たちなので、ほとんど気になったことはない。

 

まさか、たまに来ない本店の方に「26歳」を絶賛されるとは思わなかった。

 

 

「これって『26歳ハ○ス○ント』って言えるんじゃない?」

 

なんて思う。

 

私は18歳の時、フリーターという生き方を選んだ。その頃にも今の私と同い年くらいの先輩はたくさんいたし、「26歳」の先輩たちは確かに大人だったけど、そこまでお兄さんだとかお姉さんだとか、歳が離れてるとかを思ったことがあまりなかった。年齢の差を考えたことや、年齢の差で接し方を変えたこと。そういう感覚があまりなかったから、「26歳」だとか「年上」だとかって、区切る年下の子たちに「ああ、そういうものなのか」と最近はお勉強させてもらっている。

 

でも、言いたい。一つ言いたくなってしまう。

 

何歳になってもみんな“いつか”からの延長だよ、って。

 

私なら18歳の延長上にいる、20歳の延長上にいる友達もいるし、22歳の延長上にいる友達だっている。何歳であれ、人はみんな、何歳かの延長上なのではないだろうか。

 

そう思ってる自分もまた、おばさんみたいで、子どもみたいで、なんか“いや”だ。

 

年齢によっていろいろある。それが面白くもあるけれど、年齢って不便だなあ。

 

「何がわかるのよ!」

 

そう思う。

 

そういうことを考えるのも、これくらいの年齢に“あるある”なのかなあ。

 

ああ、不便。ああ、いやだ。頑張れ私!負けるな私!自由になれ私!

 

私から、世界から、常識から!!

 

そう思いながら。

 

書きます、読みます、働きます!!

 

 

年齢なんてくそくらえ〜〜!!!だ!!!

 

ポエムが貼ってあるラーメン屋

 

「面白い!」と思った。

 

 

読めよ、さらば憂いなし

壁にポエムが貼ってあるラーメン屋が苦手だ。

 

こう書いてある文字を読んで、そう思った。ラーメン屋さんに貼ってあるポエムのことなんて気にしたことがなかった。確かによく見かけたかもしれない。 「やる気!元気!!」みたいな言葉が書かれている姿を。だったとしても、美味しければいい。美味しければ、思うことは何もない。

 

ただ、そこで考えてみたくなった。

 

「苦手に思うお店(飲食店)の特徴ってなんだろう?」

 

すぐに浮かんできたのは、一時期気に入って使っていた“マクドナルド”だった。お店はリニューアルしたところで綺麗で、広く、フロアにいる店員さんがニコニコしていて心地よかった。近くで用があったときは、よく休憩しに入った。

 

だったのだけど。

 

だったのだけど、久しぶりに入ったその“マクドナルド”で見たのは、ニコニコしていたあの店員さんがバチバチに新入りアルバイトさんに怒っている姿だった。お客さんに聞こえる声の大きさで、お客さんに見える場所で。気まずすぎて、後ろを振り返ることもできないほどだった。

 

その時、思い出していたのは、

 

「隙がないほどニコニコしてる人、愛想の良すぎる人、優しすぎる人には気をつけなさい」

 

という、20歳の頃に教わった教えだった。

 

アルバイトで怒られること、注意されることは仕方のないことだと思う。誰だって失敗はするし、慣れるまで時間はかかるし、慣れた人にとって新しく入ったアルバイトの行動が不便だと思うことも、そう思われることもよく理解している。だけど、それにだって場所とタイミングと言葉は選べる。

 

今更言ったって信じてもらえないかもしれないけれど、ニコニコした笑顔に10秒ほど感じていた“違和感”の姿はあの姿だったのだ、と思いながら、その日そこでの時間を過ごした。そこからもう、あの店舗には足を運んでいない。

 

そのお店にお金を落としたくなくなったから。

 

 そういうことはあると思う。

 

気に入っていたお店が、気に入っていたお店になってしまうこと。居心地よかったお店が、居心地わるくなってしまうこと。

店員さんの一瞬の姿かもしれないし、商品のクオリティーにかもしれないし、お手洗いの綺麗さにかもしれないし、客質にかもしれない。私にはそんなお店がいくつかある。

 

駅前のスタバもそうだ。

 

よく通い、コーヒー1杯で、よく長居してしまったからか、店長さんから「邪魔だなあ」という目とオーラを感じるようになり行けなくなってしまった。最近は、姿を見かけないので、たまに入るけど。

 

私が苦手に思うのは、お店に貼られた「ポエム」にではなく、「お店の雰囲気」や「居心地の変化」にかもしれない。変わられることに「良さ」をあまり覚えないタイプなのかも。なんにせよ、気持ちよくお金を払って、気持ちよく商品を受け取って、楽しんで、気持ちよく思って、気持ちよく過ごせるお店がいい。そんなお店が好き。

 

チェーン店でも、個人店でも。ハンバーガーショップでも、ラーメン屋でも。

 

 

魔法で呪文「若くて、可愛くて、ごめんね」

 

昨日、年下の先輩がこう言ってた。

「『若くて、可愛くて、ごめんね』って思ってました。」

 

なんでも、前のバイト先で女性のお客さんから僻まれていたのだとか。イケメン好きの彼女は常連さんやイケメンのお客さんと仲良くなるのが得意だったらしいのだけど、それをある女性客からよく思われず、睨まれたりキツく当たられたりしていたらしい。そんな時いつも「こう思っていた」と。

 

それがこの言葉、

 

「若くて、可愛くて、ごめんね」

 

確かに彼女は、“若くて可愛い”。

 

特に男性には、魅力的な女の子かもしれない。華奢で、よく笑って、よく話して、イケメン好きで、フッ軽で、恋愛体質で、肉食女子だから。(ちなみに、優しくて、新しく入った私に気を配ってくれて、仕事が丁寧、しっかり働く女の子です)

 

今の姿から思うと、本人は前のバイト先でだってきっとただ「仕事」をしていたのだろうと思う。ただ純粋に、(その上で出会いがあったらラッキーくらいは思って話しかけていたこともあっただろうけど)お客様に楽しんでもらう接客をしていただけ。話しかけることも「仕事」だった、それをただこなしていただけ。だから、目の敵にされても困っただろうし、その悔しさを、その腹立たしさを、「若くて、可愛くて、ごめんね」と思うことで、中立を取ろうとするのは仕方がないことだったのだろうと思う。そう思うから、「そうだそうだ」と話に肯定をしめした。

 

本当に本心で「そうだそうだ」と思う。

 

そういう人には、それくらい思ってやればいい。

 

働いている人も人間なのだから。

 

お客様は神様だけど、お客様が神様になっていいわけではない。

 

だから本心で、年下の先輩が何度も言う「若くて、可愛くて、ごめんね」に共感する。

 

だけど、だ。

 

だけど、その反面で「危険だな」とも思った。

 

その言葉は、秘密兵器にしておくべき言葉だから。

 

言葉は必ず放った本人に返ってくるようにできている。

 

今の自分を保つためだけにある言葉は、いつか自分を苦しめる言葉になる。

 

 

「若くて、可愛くて、ごめんね」

 

 

だから、秘密兵器程度に、最終兵器程度に、しておいたほうがいい言葉だと私は思う。

 

なぜなら、それにはいつか終わりがくるから。そして、その言葉は、負けを掘ることにもなりえるから。

 

「若くて、可愛くて、ごめんね」

 

正直いえば、気持ちいい言葉。ムカつくことや、悔しいことを、吹っ飛ばすのに、威力を大きく持つ。そんな言葉。だけど、どんな人も若くて若くないこと、可愛くて可愛くないこと。若くて可愛いは当たり前だということ。

 

彼女のそれは「危険」だとも思った。

 

『若くて、可愛くて、ごめんね』

 

そう思って、世界に負けないように生き抜いていくことは素晴らしいことだ。そう思えること自体が「素晴らしい力」なんだから。それをエネルギーに戦っていける。それこそ「若さ」で、そう思える時期の「魅力」。

 

ただ「思うこと」と「振りかざすこと」は違う。

 

若さも可愛さも競う必要のないものだし、競った時点で、試合は終わっている。

 

『若くて、可愛くて、ごめんね』

  

その魔法はいつか溶けるから、

 

振りかざすことを覚えてはいけない。

 

競わないこと。競わないこと、競わされないこと、そっちを覚えていけた方がきっといい。

 

人はみんな歳をとる。人はみんな今が一番若い。

 

『若くて、可愛くて、ごめんね』

 

この言葉は魔法であり呪文。

 

言葉は諸刃の剣だから、心だけに置いておくほうがいいと思った。

 

そんな話、そんな言葉。